第七章「古森騒動」【4】

キオはきっと強い子になれるはず、そう予感するシアでした。そして古森に着いたキオたちは、早速野犬たちを探し始めました。ところが、探すといっても実際どうやって探したらいいのかわかりません。何か良い考えが無いか三人は思案しました。始めに口を開いたのはルイルです。
「犬って賢いんだろ。だったら呼んだらその辺から出てくるんじゃないか?」
「呼ぶって、どうやって呼ぶの?」
「そりゃ当然“野犬やーい”とか“おーい、野犬”しかないだろ。」

パティンは鼻で笑いました。
「それはちょっとおかしいんじゃない?野犬はきっと“野犬”と呼ばれてるなんて知らないはずだよ。」
「パティンはいつもあれはだめこれもだめって言うだけだな。たまには自分でいい案を出してみろよ。」
「いい案っていっても、“おーい”とか“やーい”とか…」
「それじゃあ俺の言ったままじゃんか!大したことも言えないのに口を挟むなよ。」

パティンはちょっとむくれました。見かねたキオがこう言いました。
「ねえ、けんかしながらじゃ見つかるものも見つからないよ。“野犬やーい”でも“おーい”でもいいから、とにかく大声で呼ぼうよ。そうしたらひょっとして出てきてくれるかもしれないよ。」
「あの…出てきたらどうすればいいの?」
パティンの素朴な質問は、キオをぴたっと凍りつかせました。そこまでは考えていなかったのです。キオはただ長に会いたい、それだけだったのです。
「と、とにかく見つけたら僕に知らせて!」

それから彼らは大声で野犬を呼びながら森の中を歩き回りました。それでも一向に野犬の姿を見つけることができません。そのうちに辺りが少し暗くなってきました。
「もう帰ろうよ。そろそろ夜になっちゃうよ。」
「パティンとルイルは先に帰っていいよ。僕はもうちょっとだけ探してから帰るから。」
「え…!だめだよ、いっしょに帰ろうよ。真っ暗になったら帰れなくなっちゃうよ。」
「その前には帰るから大丈夫だよ。」
「今日のところはあきらめて帰ろうぜ、キオ。」
「でも…」
「暗くなったらまた長が出てきてくれると思ってるの?」

パティンの指摘にキオはどきっとしました。
「やっぱり、明るいうちは出てきてくれないと思うんだ。だから少しでも暗くなったら出てきてくれるような気がするんだよ。」
これにはルイルがあきれました。
「本当にそんなこと考えてるのか?出て来るかどうかわからないのに。もし出てこなかったらどうする気なんだよ?!ここに泊まるのか?松明だって無いんだぞ!」

結局二人に説得される形で、キオもいっしょに帰りました。キオは心の中では、真っ暗になったら必ず出てきてくれるはずだと信じていました。今度からは念のために松明を持ってこようと思いました。とにかく見つかるまで探そうと決意するキオでした。それから毎日、彼らは古森で野犬を探し続けました。学校が休みの日などは一日中森の中にいました。それでも、野犬の姿どころか、鳴き声すらも聞こえてこないのです。パティンとルイルは既にあきらめかけていました。
「こんなに探しているのに見つからないなんて、どうなってるんだ?」
「ひょっとしたら古森にはいないのかもしれないね。例えば、別の森に引っ越したとか…」
「犬が引っ越すなんて話、聞いたこと無いぜ。」
「例えばなんだから怒らないでよ。」
「じゃあ、他にも例えばって話しあるんだろ?言ってみろよ。」
「そんなに急には出てこないけど…人が怖いとか。」
「犬は人間を怖がったりしないよ。」
パティンの推測にキオが反論しました。
「でも、軍隊が来たら野犬はみんな殺されちゃうんでしょ?犬は賢いんだから自分たちに危害を加える人間がいることも知ってるはずだよ。だから怖いって思ってるかもしれないよ。」
「そんな…」

森を見渡しても、動物の気配すら感じられません。
「でもさ、もし引っ越したんならいいんじゃないか?それで軍隊に殺されることもなくなったわけだし。なあ、キオ?」
確かにルイルの言うとおりです。でも、キオには長がいなくなったなんて信じられませんでした。いえ、信じたくありませんでした。

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第七章「古森騒動」【3】

「おお、そうかね。犬は元々賢いんだが、その中でも長は頭抜けて賢いという話を聞いたことがあるからなぁ。」
「ヒャトンさんは僕の話を信じてくれるの?」
「もちろんさ。長は他の犬とは違う。何か特別な力を持っている、私はそう思うね。」

ヒャトンさんはそういってウインクしました。長のことを褒められたのが、キオは自分のことのようにうれしく思いました。
「ヒャトンさん、野犬たちが軍隊に殺されちゃうって、本当なの?」
ヒャトンじいさんは驚きました。
「誰からそんな話を聞いたんだね?」
「お兄ちゃんから…」

キオはルドから聞いた話をそのまま彼に話しました。
「ふうむ、なるほど。それはあっても不思議じゃない話だな。しかし軍隊が簡単に動くということも無いだろうて。何か動きがあったらディスマン様のところにも情報が入るだろうし。」

ヒャトンじいさんの話を聞いて、キオは少しだけ安心しました。でも、それは完全に否定された言葉ではありません。ルイルとパティンは黙ってキオの様子を見ていました。どうして彼がこんなに野犬のことを気にかけるのか、それが二人にはよくわかりませんでした。ヒャトンじいさんの部屋を出て、セーロとツォノに別れを告げて、彼らはディスマン氏の邸宅を後にしました。帰りの道すがら、ルイルはこんな事を言いました。
「明日から古森に行って野犬を探そうぜ、キオ。」

キオはえっという顔をしてルイルを見ました。
「昨日の白い犬のことが心配なんだろ?だったら探してみればいいじゃないか。」

会いたいと思うだけでは何も始まらない、探すという行動を起こさなければ。キオは自分のすべき事がはっきりとわかって、目の前が明るくなったような気がしました。
「当然パティンも手伝うよな?」
どうしてわざわざ野犬を探しに何て行かなくちゃならないのか、野犬はやっぱり自分たちを食べてしまうんじゃないか、そんな考えがパティンの頭の中を駆け巡りました。でも、今は友の心配を取り除いてあげる時なのです。
「い、いいよ…ちょっと怖いけど。」
「よし、決まりだ!明日から捜索活動開始だ。」
「あ、でもちょっと待って…シノンの農園の仕事がまだ残ってるんだけど。」

せっかく気分が盛り上がったところに水を差され、ルイルはうんざりした表情でパティンをにらみました。
「ああ、ああ、そうだな。うんうん、パティンの言う通りだよ。まずシノンの農園の仕事を終わらせて、それから長を探しに行こうぜ。」

         

翌日から彼らは大忙しでした。日の出と共に目を覚まし、子供三人だけですが、シノンの農園で作業をしました。彼らには別の大事な目的があり、そのためにもこの農園での作業を一日でも早く終わらせる必要がありました。ですから、彼らは学校に行くまでの間、大人顔負けの働きをしました。ありがたいことに、彼らが学校に行っている間、隣の農園からノークさんが手伝いに来てくれました。彼はディスマン氏に頼まれてやってきたのです。でも彼はもともとデムを手伝おうと思っていたので、喜んで引き受けてくれました。
「前に俺から助けてやると言ったんだが断られちまってね。よそ様に助けてもらわなくってもちゃんとやっていけるとさ。そうは言われたが、その後も何かと気にはかけていたんだ。だが間が悪いことに、ミロアが倒れた時には俺もコリー村に行ってしまってたんだよなぁ。何もしてやれなくて残念だったよ。ただ今回はディスマン氏じきじきのご依頼があったんだ。それならデムにも文句はあるまい。」
そう言ってノークはこの後、デムが帰ってくるまでの間の作業等々、全てを彼が責任を持って執り行うということになりました。キオたちも学校が終わってからノークを手伝い、その二日後には冬を迎える前の作業がとうとう終わりました。そして翌日、キオたちはさらに早起きをして古森へ向かいました。そのことを聞いて一番驚いたのはキオの母・シアです。始め彼女は自分の息子が言ったことを真に受けることができませんでした。キオが古森へ行くことをようやく理解できた時、実はうれしくて笑ってしまいそうでした。でも彼の真剣なまなざしを見て、笑ってはいけないと必死にこらえたのです。
「まさかあの子が自分から古森に行くと言うなんて…」
後にシアはゴルに対してそう話しました。ゴルが白森の丘へキオを連れて行ったことは間違っていなかったということです。

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第七章「古森騒動」【2】

「だって、もし犯人が野犬じゃなかったら、野犬がいなくなった後でも死んじゃう人が出るってことでしょ?もしそうだったら野犬がかわいそう…」
「俺のせいじゃないぞ、そんなの。文句があるならラムラス村の連中に言えばいいんだ!」
ルドが少し怒った声を出したので、パティンは小さくなりました。
「ラムラス村の人に言えば、野犬狩りはなくなるの?」
「そんなこと知るもんか。もういいから黙ってろよ。」

ルドはそれ以上キオの話を聞く気はないようでした。ルイルはいつの間にかアッケに体を預けて眠っていました。パティンは心配そうにキオの様子をうかがっています。キオの頭の中は野犬たち、特に長のことでいっぱいになりました。とにかくもう一度長に会いたいと、彼は強く思うのでした。

            

白森の村に帰ってきたキオたちを出迎えたのは、彼らの母親でした。父親たちはまだコリー村から帰っていないようです。パティンの家には母親と祖母しか残っておらず、だから彼を迎えに来る者がいなかったのです。キオはシアに抱きしめられました。彼女は何も言いませんが、キオはなんとなく悪いことをした、という気持ちになってしまいました。
「心配かけてごめんなさい、お母さん。」
シアは彼を抱きしめたまま首を横に振りました。
「謝ることなんて無いわ、あなたはとてもいい事をしたんだから。シノンのお母さんを助けてあげたんですもの。お母さん、とてもうれしいのよ。お父さんが帰ってきたら一番に教えてあげなきゃ。」
「お父さん、怒らないかな?」
「怒るもんですか!きっとあなたのことを褒めてくれるわ。よくやった、えらいぞってね。」

キオは何だかむずがゆくなりました。子供たちはめいめいの家に帰っていきました。
「そういえば、ヒャトンさんはどうなったの?腰が痛いって言ってたんだけど。」
「ヒャトンさんなら大丈夫よ。腰はたまに痛くなるからしょうがないんだって。しばらく休めばよくなるって言ってたわよ。心配なら後でお見舞いにでも行ってらっしゃいな。」
「うん。」
「ディスマンさんにもちゃんとお礼を言うのよ。馬車を貸してくださったんですからね。」
「うん、わかった。ちゃんと言うよ。」

昼を過ぎてからキオたち三人は、馬車を返すためにディスマン氏の邸宅へ向かいました。屋敷に着くと家政婦のセーロが笑顔で出迎えてくれました。
「まあ、小さな英雄様たちのお帰りだわ!あなたたち、無事に仕事を成し遂げたのね。ルドから話は聞いてるわ。ディスマン様もたいそうほっとしていらっしゃるのよ。さあ、みんな中へ入って。」
三人はセーロに促されるまま屋敷の中へ入りました。キオはセーロに尋ねました。
「あの、ヒャトンさんの腰の具合はいかがですか?」
セーロは明るく微笑みました。
「心配いらないわ。いつものことなのよ。今は自分の寝室で動けずにいるけどね。」

それからキオたちはセーロに案内されて二階に上がり、ディスマン氏の書斎に通されました。三人の姿を見たディスマン氏は顔をほころばせました。それから三人は昨日のことを詳しくディスマン氏に語って聞かせました。長に道案内されたことを除いて、彼らは全て話しました。
「なるほど、“偉大なるアーロイ”市の病院ならミロアをしっかりと治療してくれることだろう。デムとシノンもしばらく向こうで暮らせばいい。彼の農園の事は誰か他の者に任せるとしよう。」

ディスマン氏に労をねぎらわれ、三人は書斎を後にしました。一階へ下りて来た三人はヒャトンじいさんの部屋へ向かいました。彼はベッドに横になっていて、顔だけを三人に向けてにっこりとしました。そこで三人はヒャトンじいさんにも昨日のことを話しました。ヒャトンじいさんは話を聞きながら、笑ったり、驚いたり、表情をころころと変えながら彼らの話に聞き入りました。
「残念だよ。本当なら私も野犬の姿を拝めるところだったんだなぁ。」
「だめだね。大人は馬車を速く走らせることができるから、暗くなって野犬が出てくる前に森を出ちゃうよ。」
「おお、それもそうだ。ではどっちにしても私は野犬に出逢うことはできなかったか。」
「ヒャトンさんは野犬に会いたかったの?」
「そうともさ!私は別にあいつらを怖いとは思ってないからねぇ。私にはあいつらが悪いことをするなんてとても思えないんだよ。」

そこでキオは思い切ってヒャトンじいさんに長の話をしました。彼の後を付いていったら森を抜けられたことをヒャトンじいさんに話したのです。

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第七章「古森騒動」【1】

翌日、デムはミロアとシノンをつれて“偉大なるアーロイ”市へ向かいました。彼は今までのことを二人に謝り、これからはまじめになると誓いました。サグ家親子を見送り、三人の子供たちはルドとアッケといっしょに白森の村へ帰りました。ルドはキオたちに森に入るぞ、大丈夫かなどと冗談交じりに脅かしましたが、昨日のことを思えば朝の古森など何でもありません。パティンはまだ少し眠たそうで、ルイルは兄のアッケに昨晩のことを得意気に語っています。キオはルドと話をしながら森の木々の間をうかがっています。彼は長の姿を探していました。長はキオたちを食べるどころか、助けてくれました。その時の長の姿が彼の脳裏に焼きついています。長の体は大きく真っ白で、走る姿はシノンの言うとおり飛んでいるようでした。地面を蹴って手足を伸ばした時、長の体は確かに浮いていて、そのまま真っすぐ前に進んでいったのです。でも、ルドはキオの話を信じようとはしませんでした。
「野犬が道案内をしたなんて話、聞いたことが無いよ。キオは夢でも見たんだな。」
「そんなことないよ。ルイルもパティンも、シノンだって見たんだから、夢なんかじゃないよ。」
「そうか、わかったぞ。みんな夜の森が怖くてそんな幻が見えたんだ。野犬がただ走ってるだけなのに、怖いからそんな化け物じみたことをしているように見えたんだ、そうに違いないよ。」

アッケがぽんと手を叩きました。
「思い出したぞ、確か『クンナと呪術師』って童話にそんなのがあったよな。森を案内してもらったんだよ。あれは猫だったけど。」
「長は化け物なんかじゃないよ。それにもう森も野犬も怖くないんだからね。」

でも結局ルドには信じてもらえませんでした。野犬が人を襲って食べたりしないなんて話も、ルドは端っから信じていませんでした。
「お兄ちゃんは野犬が人を食べるところを見たことがあるの?!」
「見たことは無いけど、獣に食べられた跡のある死体が見つかったのは事実なんだ。古森には野犬のほかには草しか食べない小さな動物ばかりだから、犯人は野犬に決まってるよ。」
「そんな死体が見つかったなんて話、聞いたことが無いよ。お兄ちゃんは夢でも見たんだよ。」
キオはさっきのルドを真似しました。ルドは少しむっとしました。
「その話はラムラス村で聞いたんだ。森とか山の中とかで死体が見つかったらみんなそっちへ運ばれることになってるからな。それに一人や二人の話じゃないぞ、毎年大勢の人が古森で死んでるんだ。」
「そんな風に死んじゃった人、本当にいるの?」
「白森の村ではいないな。白森の人間は夜に古森に入るような馬鹿な真似はしないけど、旅をしている人やラムラス村の人は野犬なんてお構い無しに入っちゃうんだよな。そして野犬に食べられるんだ。だからラムラス村じゃあ、領主様に掛け合って何とかしてもらうように頼んだって話だぜ。」
「何とかって何?何をするの?!」

キオの声が大きくなり、パティンが驚いて目を覚ましました。
「大声出すなよ。おそらく軍隊がやってきて、野犬狩りをするんじゃないのかな。」
「野犬狩りってどういうこと?犬たちを殺しちゃうの?!」
「そりゃそうさ、殺さなきゃ意味ないよ。生かしておいたらまた人を襲うんだから。」

キオ派もう兄の話を聞きたくありませんでした。でもルドの話には続きがありました。
「領主様に頼んだのはおととしの中ごろなのに、今まで一度だって兵隊どころか、領主様のところから使いの者一人も来やしない。どうせこんな田舎の人間が死んだってどうでもいいと思ってるんだよ、カロエン様は。」

カロエンは南星領の領主です。白森の村やラムラス村もこの南星領に属しています。何か村で問題が起こり、それが村だけでは解決できない時は領主様に相談することになっています。だからよほど大きな問題でない限りはそこの住民だけで取り組まなければならないのです。キオの顔が青くなりました。ルドはキオをちょっと脅すだけのつもりだったようですが、キオには深刻な話にしか聞こえませんでした。今は誰も来ていなくても、いつか軍隊がやってきたら野犬たちは皆殺しにあうのです。それはもちろん長も含めてです。
「で、でも本当に野犬がやったのかどうか判らないのに野犬狩りをしても意味無いと思うけど。」

キオの様子を見かねたパティンが口を挟みました。でもルドとキオに注目され、彼は視線を足元へ向けました。

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第六章「野犬の長」【15】

「みんなありがとう。私、この気持ちをどうしたらいいかわからないから、みんなに熱いキスをしてあげる!誰からがいい?」
三人はぎょっとして首を振りました。
「お、俺はいいから。パティン、お前がしてもらえよ、俺の分も。」

パティンは真っ赤になりました。
「え…ぼ、僕もいいよ。今日はキオが一番頑張ったから、キオがしてもらえばいいんじゃない?」

キオは目を丸くして息を呑みました。
「いや、僕は大丈夫。大して頑張ってないから。そんなことしてくれなくてもいいよ。」
「やあねぇ、みんな照れ屋さんなんだから!いいわ、今日のキスはとっておいてあげる。だからキスがしたくなったらいつでも私に言ってね!」

笑っているのはシノンだけでした。

         

子供たちは疲れて病院のベッドでぐっすりと眠っていました。そこへデムとルド、ルイルの兄・アッケがやって来ました。デムは顔面蒼白です。メリソン先生は寝ているところを起こされたのでほとんど目を閉じながら、デムにミロアの容態について話しました。
「…シノンには本当のことは言っておらんよ。今回の発作は病気がかなり進行しているという証拠だな。これからもこの発作は起こるよ。そして発作の起こる間隔が短くなってきたら、いよいよだと思いなさい。」
メリソン先生はゆっくりと、丁寧に話しました。デムは愕然としました。
「そんな…先生、妻の病気を治す方法は無いんですか?」

先生は少し考え、そして首を振りました。
「今までできるだけのことはやってきた。だがどうにもならん。発作を抑える薬も無い。無理に仕事なんかせずに安静にしておれば、発作が起きるのはもっと後だったかもしれんが…」
「ミロアは根っからの働き者なんで、私が寝ていろと言っても農園に行ってしまうんですよ。」
メリソン先生はデムに向かって顔を突き出し、彼をぎろっと睨みました。
「お前さんがだらしないからじゃないのかね?」
先生は明らかに怒っていました。デムは何も言えず、先生から目をそらしました。
「白森の人らは噂しておるよ。お前さんは大して働きもせずに飲んだくれているそうじゃないか。病気のミロアと、あんなに小さいシノンにだけ仕事をさせてな!ミロアは無理をせざるをえんかったんじゃないのかね。」

デムは両手で顔を覆いました。
「ああ、私は何てことを…私は欲に目がくらんで大切な娘を手放してしまいました。私はそのことで何をするにも億劫になってしまい、挙句に酒に逃げたのです。お許しください、もう二度とこのようなことはいたしません。ですからメリソン先生、どうか妻をお助けください。」
「謝る相手が違っておるな。だが、まあいいだろう。…それ、こいつを受け取りなさい。」

先生は一通の封筒をデムに差し出しました。デムは顔を上げ、封筒を手に取りました。デムは封筒をしげしげと眺めました。封筒の表には<ヨンロン先生へ>とだけ書かれています。
「先生、これは一体…?」
「中身はミロアの紹介状だ。それを持って明日にでも“偉大なるアーロイ”市の私立病院にいるヨンロン先生を訪ねなさい。」
デムにはどういうことかわかりませんでした。
「こんな小さな病院では治療にも限界がある。そう思って私はヨンロン先生にミロアの病気について助言を求めたことがあるんだ。だがそこでもミロアの病気を直す方法は無いらしい。ヨンロン先生はミロアが発作を起こしたらうちに入院させろと言ってくれたよ。あそこの私立病院なら、ここよりも少しはましな治療ができるはずだ。ヨンロン先生は人柄も大変素晴らしいお人だ。医者としての腕も私が太鼓判を押そう。安心して任せられる医者だよ。」

先生の顔は少し優しくなりました。
「でもミロアの病気は治らないのでしょう?」
「確かにその通りだ。それでもここにいるよりはいいはずだ。医者がこんな事を言うのはいかんのだろうが、彼ならきっと一日でも長くミロアの寿命を伸ばしてくれるに違いない。後はミロアをゆっくりと休ませてやることだけだ。」
しばらく間があいてから、デムは泣きはじめました。口を手で押さえましたが、それでも声が漏れていました。メリソン先生はデムの肩に手を置いて、こう言いました。
「デムよ、まじめに生きなさい。ミロアはまじめに生きておる、シノンだってそうだ。お前さんが一所懸命に働くことが家族に安らぎを与え、支えにもなるのだぞ。」
デムは涙を流しながらうなづきました。病室の子供たちは、ルドとアッケに見守られて、何も知らずに眠っています。とにもかくにも彼らは古森を通り抜けることができました。心なしか、彼らの寝顔も誇らしげです。

             ― 第六章 完 ―

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第六章「野犬の長」【14】

「僕のこと、呼んだ?」
「え?呼んでないよ。それよりキオ、前を見てよ。」

キオは長を見ました。まさか、と彼は思いました。長が自分の名前を呼んだのかと一瞬考えました。でも犬が人の言葉を話すなんてありえない、と妙な発想を振り払いました。
…ォ。

今度はさっきよりもはっきりと聞こえました。それも耳ではなく頭の中で聞こえたのです。長が自分に話しかけ、犬の言葉がわかり…長は自分の名前を知っていた、その全てが驚きでした。
「野犬だ!」
ルイルが叫びました。キオは我に返りました。シノンも長の姿に気づきました。
「すごい、何だか飛んでいるみたい。」
「キオ、早く逃げて!」

パティンが声を引きつらせながら言いました。でも、キオは今どこを走っているのかわらなくなっていました。ひょっとして道を外れてしまっているのかもしれません。前も後ろも、左も右も、どこを見ても真っ黒な闇の中なのです。長がぐんっと走る速度を上げました。長は馬車を追い越しました。そして左斜めに走ってキオたちの乗る馬車の前に出たのです。キオは長の走る姿をじっと見ています。キオは長の走った後を付いていきました。そうすればいいのだ、と思いました。彼にはもはや何の不安もありませんでした。長が右に曲がっていけばキオも馬車を右に向け、長が左に曲がればキオも馬車を左へ走らせました。ルイルとパティンは野犬から無事逃げられるように祈るだけでした。それからどれほどの時間がたったのでしょう、彼らの視界は突然月明かりの元にさらされました。古森を抜けたのです。キオは左右を見渡し道を間違えていないことを確認しました。
「やった、俺たち森を出られたぞ!」

ルイルが叫んでいます。ふと気がつくと、前を走っていたはずの長の姿がありません。キオはパティンに尋ねました。
「長がどこに行ったか知らない?」
「長って?」
「さっき僕たちといっしょに走っていた犬だよ。見なかった?」
「知らないけど…きっと僕たちが森を出たから食べるのをあきらめて帰っていったんだよ。」

      

「長は僕たちを食べる気なんて最初っからなかったんだ。だって僕たちを森の外まで案内してくれたじゃないか。」
「キオ、何でさっきからあの犬のことを長って呼んでるんだ?」
「ホリシカさんが教えてくれたんだ。」
「ホリシカさんって、どこの人?」
「白森の丘に住んでいるおばあさんだよ。ホリシカさんはちっとも怖くなくて優しいし、野犬だって怖がる必要ないんだよ。」

それから、馬車は真っすぐな一本道を進みました。やがてその先に明かりが灯っているのが彼らの目に入りました。
「あ、あれ見て!ラムラス村だ。」
彼らはようやくラムラス村に到着しました。ミロアは相変わらず苦しそうで、彼らは急いで村の病院へ向かいました。村病院のお医者さん・メリソン先生は夕食の途中でしたが、すぐにミロアの治療をしてくれました。子供たちの心配をよそに、メリソン先生はさほど切羽詰った様子ではありません。メリソン先生はシノンに向かってこう言いました。
「なぁに、心配は要らんよ。少し熱は高いが命に別状はなさそうだ。よく効く注射を打っておいたから、安静にしていれば明日の朝までには熱も下がるだろう。」
シノンはほっとして顔を崩しました。
「今夜は君たちもここに泊まっていきなさい。明日、帰ればいいから。」

パティンがキオに小さな声で尋ねました。
「ねえ、僕たちお父さんやお母さんに黙って来ちゃって、後で怒られたりしないかな?」
「そうだね、きっと心配してるかもしれないね。」
「怒られるわけないだろ、俺たちいいことしたんだから。」
「うん、大丈夫だよ。ディスマンさんがこのことを知ってるからお父さんたちにも話してくれてると思うけど。」
「でも僕、この前もすごく怒られたし…」
「じゃあ私からちゃんと言ってあげる、パティンのことをあんまりしからないでって。」

からかっているのではなく、シノンは感謝の心からそう言ったのです。

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第六章「野犬の長」【13】

「そんな当たり前のこと言われても…」
「ほら見ろ!だったら間に合うかどうかなんて誰にもわかんないじゃないか。それなのに落ち着けるわけないだろ、馬鹿じゃないのか!」
ルイルの罵声にパティンもさすがにむっとしたような顔をしました。
「けんかはやめてよ。」
シノンの声でした。でもその声はとても弱々しく、頼りなげです。
「間に合わないなんて言わないで…」
シノンは泣きそうになりました。
「間に合わないって、そんな意味で言ったんじゃないよ。…キオ、いいからもっと速く行けよ!」
馬車はようやく村を出ました。そして彼らの目の前には古森の入り口が迫ってきました。枝を広げた古森の木々が、まるで手招きをしているようでした。彼らにとって恐ろしいのは野犬だけではありません。白森と違って、ここの木々は黒っぽい樹皮のものが多く、夜にはそれこそ真っ暗になってしまうのです。月明かりさえも当てにはできません。ですから古森に入るときは松明を絶対に忘れてはならないのです。
「忘れた…」

パティンの言葉にキオとルイルは血の気が引くようでした。ルイルは慌てて馬車の中を探しました。ひょっとしてヒャトンじいさんが用意してくれているかもしれないと思ったのです。
「キオ、松明がないよ!取りに戻ろう、ひき帰せよ!」
ルイルの叫びにキオは反応しません。
「キオってば!」
「戻らないよ。もうそんな時間はないよ。これでひき帰したら本当に夜になっちゃうよ。」

キオはできるだけ速く馬を走らせようとしました。でも古森の道は曲がりくねっていました。歩いてこの森に入ったときはそんなことを感じませんでした。でも今回は右に曲がったかと思うとすぐまた左に曲がります。ですから思ったように速度を上げることができません。さらには真っ直ぐになったと思ったら上ったり下ったりと息つく暇もありません。気持ちは焦るばかりで、どれだけ前に進んだかもわかりませんでした。枝の間からわずかに空が覗けました。空は濃いオレンジ色の池に黒い水が差し込まれたようになっています。もう日が完全に沈んでしまいそうになっていました。いつの間にかこんなに時間がたっていたのです。古森の木は黒い柱に化け、彼らの行く手を塞ぎます。少し先の道さえも見えにくくなってきました。このままでは前に進めなくなってしまいます。無理に進んで道を外れたら、馬車は木にぶつかってしまうでしょう。一度止まったほうがいいのかもしれない、キオはそんな風に考えていました。遠吠えがしました。それは三人の耳にもはっきりと聞こえました。でも、ひょっとしたら気のせいかもしれない、と三人はそれぞれに思いました。それは切なる願いでもありました。
「犬だわ。」
シノンの耳にも聞こえたようです。空耳ではなかったのです。パティンは驚きと恐怖のあまり、目が開ききっています。ルイルの緊張も頂点に達していました。キオもぶるっと震えました。あの日の記憶が鮮明によみがえります。もう止まれません。いくら野犬が人を襲わないと聞かされていても、それで不安がなくなるというわけではないのです。

          

今度は違う方向から犬の泣き声がします。もう真っ暗になる直前です。キオの目の前には真っ暗な道が続いていました。急がなければなりませんが、いつまた道が曲がるかわかりません。止まるべきか、止まってはいけないのか、キオは迷いました。迷いすぎて吐き気がするような気がしました。ふと、何かの気配を感じました。それは右にいます。馬車と並行して進んでいます。彼は視線を右へ向けました。暗闇の中に、白くぼうっと浮かぶものがあります。それは走っていました。馬車と同じ速度で走っていました。キオは顔をその白く走る物に向け、目を凝らしました。犬…野犬です!野犬がこの馬車を追って走っているのです。キオは野犬から目を離すことができません。その犬は首をぐっと前に突き出し、手足を大きく伸ばして走っています。とてもきれいだとキオは思いました。その時、野犬もキオのほうへ顔を向けました。キオはどきっとしました。あの日です。あの時、吸い込まれそうになったあの目です。あの犬が再び現れたのです。闇夜に浮かぶその体は、あの時よりも一回り大きく感じられました。この犬がホリシカばあさんの言っていた、野犬の指導者“長”に違いないとキオは確信しました。キオと長は目を合わせたままでした。真っ白だったんだ、とキオは思いました。キオは長の姿にますますのめりこみました。
…。
彼ははっとして、後ろのルイルとパティンを見ました。
「ば、馬鹿!ちゃんと前を見ろよ、ぶつかるぞ!!」

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第六章「野犬の長」【12】

農園へ着くと、まだミロアは倒れたままでした。彼女は汗でびっしょりになり、時折苦しそうに顔を歪めています。シノンは泣き疲れたのか、母のそばに座ってぼう然としています。セーロが駆け寄り、ミロアの様子をうかがいました。セーロの目にも、彼女の具合は決して楽観できないことが見て取れました。シノンがセーロにすがりつきました。
「セーロ、お母さんどうなるの?死んじゃうの?!」
「大丈夫よ、シノン。もうすぐヒャトンさんが馬車に乗ってきてくれるから、そしたらお母さんをラムラス村の病院へ連れて行ってあげましょうね。」

白森の村から一番近い病院はラムラス村にあります。ラムラス村へ行くには古森を通っていくのが近道です。すぐにヒャトンじいさんがやってきました。
「馬車は農園の中まで入ってこれないので外に停めてきた。さあ、ミロアをそこまで運ぼう。」

ヒャトンじいさんはミロアをおぶって立ち上がろうとしました。ところが、ヒャトンじいさんは突然うめき声を上げて動かなくなってしまいました。どうやら腰を痛めてしまったようです。仕方なくヒャトンじいさんはそのままにして、セーロがミロアを背負いました。セーロは女性ながらその大きな体格に見合った力の持ち主で、病気でやせこけているミロアを担ぐのはわけないようでした。
「始めからこうすればよかったんだわ。ヒャトンさん、少しお待ちになってくださいね。」
ヒャトンじいさんは中腰のまま右手を上げ、彼らを見送りました。
「頼んだぞぉ。」
セーロはミロアを馬車に乗せ、それからシノンをひょいと持ち上げ、彼女も馬車に乗せてあげました。そして、セーロはキオたちに向かってこう言いました。
「さあ今度はあなたたちの出番ね。馬車は扱えるんでしょ?」
三人は目が点になりました。
「ぼ、僕たちが乗っていくの?セーロさんは…」
セーロは首を横に振りました。
「私はヒャトンさんを助けてあげなくちゃならないから、いっしょには行けないわね。」
キオたち村の子供は小さいうちから馬車の動かし方を教わっています。でも、彼らの不安はそのことではありません。古森を通らなければならないのです。
「今、村の男たちはみんなコリー村へ行ってしまって誰もいないのよ。あなたたちしかいないわ。どうかシノンのお母さんを助けてあげて。」
シノンは目を真っ赤に腫らして三人を見ています。パティンは彼女のほうを見れませんでした。さすがのルイルも古森に入ることだけはためらわれました。キオは思い出していました。白森の丘のホリシカばあさんが言っていた、古森の野犬はみだりに人を襲ったりはしないという言葉を。
「ルイル、パティン、ラムラス村へ行こう。」

いつも、決めるのはキオなのです。ルイルとパティンは驚きました。
「馬車で走れば大丈夫だよ。暗くなる前に古森を抜けられるよ、きっと。シノンのお母さんを病院へ連れて行ってあげなくちゃ!」
「無理だよ、すぐに暗くなっちゃうよ。」
「それに夜じゃなくても野犬が襲ってくるかもしれないんだぞ。」
「野犬たちは人を襲ったりしないって言ってた。」
「誰が?」
「とにかく急ごう。二人とも後ろに乗って。僕が馬車を動かすから。」

キオは馬車に乗り、手綱を持ちました。パティンはシノンを見ました。シノンはずっとパティンを見ていました。彼は馬車に乗り込みました。ルイルは仕方なく、それはもう本当に仕方なくといった様子で馬車に乗りました。そして馬がゆっくりと歩き出しました。セーロは彼らに手を振って見送りました。彼らが少しでも早くラムラス村に着けるように祈りました。それから彼女は固まってしまっているヒャトンじいさんを助けに行きました。

           

ルイルは空を見上げました。空は黄色が濃くなって、夕方が近いことを示していました。村はやけに静かです。それもそのはず、この二、三日は男だけではなく女も大勢がコリー村に出向いているのです。彼女たちの役割はもっぱら炊き出しです。キオの母・シアも今日はコリー村へ行っています。村に残っているのは大半が子供と老人です。五人を乗せた馬車は少しずつ速度を上げていきました。それでもルイルはじれったくてたまりません。
「おいキオ、もっと速く走らせろよ。遅くなっちゃうぞ。」
「これ以上速くはできないよ。僕はこれが精一杯なんだ。お父さんだったらもっと速く走らせることができるけど。」

それはルイルにとっても同じこと、子供の力では手綱を御することはとても大変なのです。
「このまま走っていけばきっと間に合うよ。落ち着いて、ルイル。」
パティンがやけに冷静でした。それがルイルにはかえってしゃくに障りました。
「そんなことわかってるよ。でもこのままなら間に合うってことは、このままじゃなかったら間に合わないってことだろ?!」

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第六章「野犬の長」【11】

「わからない。」
「わからないって!じゃあどうして走り出したんだよ?」
「呼ばれた…」
「誰に?」
「…わからない…」
「何もわかってないじゃないか!それなのにどうして走ったりしたんだよ?」
「本当に何もわからないけど、誰かに呼ばれた気がしたんだ。」
キオが二人のところへやってきて、二人の間に割り込みました。
「またけんかしてるの、こんどは何?」
「僕、こうしてられないよ、行かなくちゃ。」

パティンは再び走り出しました。キオも彼の後を追いました。
「何でキオまで行くんだよ、勝手に行かせればいいだろ!ほっとけよ。」
「でも気になるんだ。とにかく行ってみるよ。ルイルはどうするの?」

ルイルは黙っていました。またキオのペースに乗せられそうで、それがしゃくに障りました。そうこうするうちにパティンの姿が小さくなっていきます。
「ルイルも後から来て!僕はもう行くよ。」

そう言ってキオはパティンの走ったほうへ向かいました。ルイルはぽつんと取り残されました。彼はひとりでここにいてもつまらないと思いました。彼はキオの走っていった方向へ走り出しました。

              

パティンはその光景を見たとき、頭の中が真っ白になりました。何が起きたのか容易には理解できなかったのです。彼の目の前には、背中をこちらに向けて倒れているミロアと、彼女に向かって泣き叫ぶシノンの姿がありました。パティンもまた、シノンと同様に最悪の事態が頭をよぎりました。それは後からやってきたキオとルイルも同じでした。三人の気配に気づき、シノンが顔を向けました。
「お母さんが死んじゃう、どうしよう!?」
ですが、この状況で子供たちだけでできる事はあまり多くありません。
「誰か大人を呼びに行ってくる!」

パティンが行こうとしたのを止めたのはルイルです。
「俺が行くよ。俺のほうが早く行ってこれるんだから。パティンはここにいろよ。」
「じゃあ僕も行く。」
ルイルとキオは走り去りました。パティンは泣いているシノンの横に座り、ミロアの様子を見ました。彼女はとても苦しそうです。ぜいぜいという声を聞いていると、こちらまで胸が締め付けられるようでした。
「大丈夫だよ、シノン。お母さん死んじゃったりしないよ。」

パティンにはそれだけを言うのが精一杯でした。何もできない自分をただ歯がゆく思うだけでした。キオとルイルはサグ家の農園を抜け出ました。
「どこに行けばいいんだ?」
ルイルは焦った声を出しました。キオの視界に真っ先に飛び込んだのは、大きなお屋敷の赤い屋根です。
「ディスマンさんの家に行こう!」

二人は一目散に駆け出しました。ディスマン氏の邸宅は四方を高い壁で囲まれています。出入り口は表と裏に門が一つずつあり、昼間は表門から誰でも自由に出入りができます。二人は表門から中に入り、正面の玄関へ続く道を走り抜けました。玄関の大きくて硬い扉を何度も叩き、ディスマン氏を呼び出しました。
「ディスマンさん、ディスマンさん、開けてください!」
しばらくすると扉がゆっくりと開き、中から使用人のヒャトンじいさんが顔を覗かせました。ヒャトンじいさんは二人を見てにっこりとしました。
「これはこれは、かわいらしいお客様だ。」

キオとルイルは息を切らして彼を見上げています。
「一体どうしたんだね?そんなに慌てて…」
「シノンのお母さんが農園で倒れたんです。助けてください!」

ヒャトンじいさんの表情がすっと変わりました。彼はパン、パンと大きく手を打ちました。
「セーロ、ツォノ、ちょっと来ておくれ!」

すると奥のほうから若い女性が二人、小走りでやってきました。二人ともディスマン氏の家政婦です。セーロは大柄で、セーロより少し背が低くやせているほうがツォノです。
「ヒャトンさん、お呼びですか?」
「ミロアが農園で倒れたそうだ。ツォノは旦那様にこのことを知らせなさい。セーロはこの子達と先に農園に行っておくれ。私は馬車に乗っていくから。」

ツォノはすぐにディスマン氏のいる二階へ上がって行きました。セーロはキオたちに向かってこう言いました。
「ミロアのところへ案内してください。」

キオとルイル、セーロの三人は農園へ急ぎました。

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第六章「野犬の長」【10】

そこへたまたまパティンとシノンが通りかかりました。
「あ、ルイルだわ。ルイルが来てるわ。」
ルイルの名を聞いて、彼には珍しく素早い反応を見せました。パティンの視線の先には、キオの隣で顔を下に向けたルイルがいました。ルイルとパティンはそのままで動こうとしません。そこでシノンがまず声をかけました。
「ルイル、どうしたの?」
答えたのはキオです。
「ルイルも手伝いに来てくれたんだよ。」
「本当に?!ありがとう、ルイル。」
シノンは素直に喜びました。ルイルとパティンはまだ固まったままです。
「ルイル、パティンに何か言いたいことはない?」
「別に、何も無いよ。」
「本当に?じゃあパティンは?ルイルに言っておきたいことがあるんじゃないの?」

パティンはもごもごと何か言いました。
「え?」
キオが聞き返しました。
「僕はお人好しなんかじゃない…シノンやシノンのお母さんが困ってると思ったから手伝ってるんだ。シノンは友達だから。それなのに、どうして手伝っちゃいけないの?」
ルイルはびっくりしました。パティンが自分の思っていることをこんなにはっきりとしゃべったのを聞くのはこれが初めてでした。
「わ、悪いなんて言ってないだろ。ただ何の得にもならないのに仕事をするなんて変だと思っただけだよ。」
「得ってどういうこと?どうしたら得だって思えるの?」
「わ、わからないけど…」

ルイルは少し目をきょろきょろさせました。今日はルイルとパティンの立場が逆だとキオは思い、おかしくなりました。その時、思い出したような顔をしたルイルが、キオのほうを向きました。
「大体、キオが三人で手伝おうなんて言うからいけないんだ。俺に無理やり手伝わせようとするから…!」
キオは右手の人差し指で自分を指し、目と口を大きく開けました。
「そうだよ、僕は一人で手伝うつもりだったのに、キオが三人で手伝うって勝手に決めちゃったからだ。」

キオはルイルとパティンの顔を交互に見比べ、呆気にとられました。
「どうして僕のせいになってるの?」
「あんた達、馬鹿じゃないの?」

シノンが大声で怒鳴りつけました。でもシノンの顔は笑っています。それに、思えば彼女のこんな元気な声を聞くのは久しぶりなのかもしれません。
「そんなことで言い合ってる暇があったら、三人とも早く手伝いなさいよ!」

シノン・サグの命令に従い、三人は彼女の手伝いを始めました。でも農園での仕事なら慣れたもので、一度働き出せば彼らはかなり役に立ちました。三人はすぐに役割分担をしました。土を掘り返すような力のいる仕事はルイルがこなし、落ち葉を集めたりする仕事はパティンが中心となり、キオはそのどちらも手を貸しました。かくして作業は順調に進み、シノンも一安心といったところでした。デムの姿は朝から見当たりませんが、この調子なら後三、四日で全ての仕事が終わるでしょう。彼女は鼻歌交じりに母親の姿を探しました。ところが、ミロアの姿はなかなか見つけられません。ひょっとして、また具合が悪くなったのではないかと、シノンは心配になりました。シノンは周りをきょろきょろとしながら農園をはじからはじまで小走りで進みました。もうすぐ自分の農園の境界線までたどり着くというとき、彼女は自分の悪い予感が的中したと思いました。木の根本にミロアが横たわっていました。シノンからは母の顔は見えず、彼女は恐る恐るミロアの背後から回り込みました。ミロアは顔が真っ青でした。そして目を閉じ、呼吸は苦しそうに荒れていました。ミロアの姿を発見した時、始めはもう死んでしまっているのかと思いました。でも、まだ生きています。
「パティンー!ルイルーー!キオーーー!」
シノンはありったけの声を出して三人を呼びました。パティンは誰かに呼ばれたような気がして、顔をゆっくりと上げました。
「どうしたんだよ、パティン?」
「うん、ちょっと…」

パティンは必死に考えました。自分を呼んだ声のことを。かすかに聞こえたような叫び声は空耳だったのか、それとも誰かがどこかで助けを求めているのか。そして結論が出ました。
「僕、ちょっと行ってくる。」

パティンは走り出しました。
「おい、待てよ。パティン!」

ルイルに呼ばれても彼は振り返らずにひたすら走りました。でもすぐにルイルに追いつかれました。パティンの脚ではルイルどころか、キオにだってかないません。
「待てったら!一体どこへ行くんだよ?」

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第六章「野犬の長」【9】

だからこそ、父の心配が苦しくもありました。二人はドクの墓に花を供え、小屋に戻ってホリシカばあさんに別れを告げてから墓地を後にしました。丘を下り、白森を抜けて村に帰りついたとき、キオは村の景色を新鮮な気持ちで眺めていました。ずっと長い間、村を離れていたような気持ちになっていました。命がけで自分を産んでくれた母のことを思いました。でもそろそろ夕方です。キオは父といっしょにそそくさと家へ帰りました。

          

白森の村の南の門を出たところには、東西へ続く道が伸びています。東へ行くとコリー村、西へ行けば赤土の村に辿り着きます。先日、コリー村で事件が起こりました。火事です。村の北西で起こった火事は瞬く間に燃え広がり、コリー村の農園を襲いました。燃えてしまった作物の木は、コリー村の全農園にある木の三分の一に当たります。農園を全て失ってしまった家もあり、コリー村は大変な事態となりました。そこで近隣の村々が立ち上がりました。燃え落ちた木を排除し、新しい木を植えるため、各村の男たちがコリー村の手伝いをする事になったのです。新しい木は白森の村や赤土の村、その他の村から少しずつ持ち寄って植え替えるのです。作業の準備は急いで進められました。キオやルイル、パティンの父親たちもコリー村へ出かけていきました。デムも二日酔いの頭を押さえながらふらふらと出かけていきましたが、やはり昼過ぎになるとこっそりコリー村を抜け出し、白森の村へ帰ってきて酒場にこもってしまいました。シノンはそのことを隣人から聞かされ、顔が熱くなるほど恥ずかしく思い、涙が出そうになるほど悔しい思いをしました。白森の村の農園では、肥料をカリスの実のなる木の根本に埋める作業がほとんどの家は終わっていました。終わっていないのは広大な農園を持つ家と、サグ家の農園だけでした。ここ数日、シノンの母・ミロアの様態が思わしくなく、シノンは一人で作業をしていました。彼女の救いは、たまにパティンがやってきて、彼女を手伝ってくれることでした。パティンは決して仕事が速いわけではありませんが、ひたすら黙々と作業をしています。シノンはそんな彼を見て、とてもうれしく思いました。さらに今日は、キオも手伝いに来てくれました。
「きっとすぐに終わるよ、がんばろう!」
キオが一声かけると、二人にも力がわいてきました。ミロアは家から出られず、デムは酒場に行ったままでしたが、シノンは寂しさを忘れることができました。翌日になるとミロアがよたよたと農園までやってきました。キオとパティンの二人が手伝ってくれていると聞いて、ミロアは寝てばかりもいられないと思ったのです。サグ家の農園には久しぶりに活気が戻りました。みんなの明るい声が飛んでいます。

コリー村ではゴルたちが懸命に作業をしていました。しかし作業は思ったよりも難航していました。一番の原因は人の集まりがよくないことでした。“白森”や“赤土”からはそれなりに人が集まっていますが、他の村々はコリー村からかなり離れたところにあり、はじめはやって着ていた人たちも徐々に来なくなってしまっていました。そこでゴルの提案により、有志の者はコリー村に泊まり込みで作業をする事にしました。ゴルは長男・ルドに家のことを任せました。

その翌日、サグ家の農園での作業中、キオはどこからか人の気配を感じました。少し後ろの木々の間からこっちを見ているようでした。なんとなくその気配に心当たりがあったキオは、気づかれないように視界をその方向へ広げました。どうやら彼が思ったとおりの人物がいるようです。彼はおもむろにその人物のいるほうへ走り出しました。その人物はそのことに気づいて逃げようとしました。
「待ってよ、ルイル!」
キオに名前を呼ばれ、その者は足を止めました。確かにルイル・フィスコです。パティンと言い争いをした後、口をきかない日が続いていたルイルは、気まずくて手伝いに来ることができずにいました。少し視線の定まらない彼に向かって、キオはこう言いました。
「みんなで頑張ってるんだけど、まだ時間がかかりそうなんだ。ルイル、よかったら手伝ってよ。ルイルがいてくれると助かるんだけどな。」

ルイルは口元を引き締め、何か考え事をしているようでした。
「ルイル、何か用事があるの?」
「別に無いけど…」
「よかった、じゃあこっちに来ていっしょにやろうよ。」

キオはルイルの手を取って農園の中央まで彼を引っ張っていきました。
「一人で行けるから離せよ、キオ。」

ルイルはキオの手を振り解き、きょろきょろと辺りを見渡しました。もしここでいきなりパティンと鉢合わせをしたら、何と言えばよいのか、心の準備がルイルにはできていませんでした。

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第六章「野犬の長」【8】

「さて、何て名前なのかねぇ。元々野犬どもを名前で呼んだりしないからねぇ。気がついたらあいつは他の犬どもを引き連れていたよ。そのうちに自然と長って呼ばれるようになったのさ。」
キオの記憶の中で、確かにあの犬だけは違っていました。キオはあの犬と目が合いました。ひょっとしたら彼がそう思っているだけかもしれません。でも、あの目の輝きは他の野犬たちにはありませんでした。暗闇の中で松明の炎に照らし出された鋭い表情は、キオに強烈な印象を残していました。いつの間にかキオはもう一度あの犬に会いたいと思うようになっていました。前方からキオを呼ぶ声がします。ゴルが駆けてきました。

        

このホリシカばあさんは墓地の管理人です。もう何十年もずっとここで暮らしているのです。村まで下りてくるのは年に二回あるかないかです。パティンはおばあさんを怖いと言っていましたが、キオは全然怖くなんかないと思いました。ホリシカばあさんの小屋でキオは顔を洗いました。ジャージャのよだれの臭いがなくなったようにキオは思いました。それからゴルとキオはあらためて墓地の中を歩いていきました。
「悪かったな、キオ。お父さん考え事をしていて先に行ってしまったんだ。怖かったろ?」
「ううん。ホリシカさんとジャージャがいてくれたから平気だったよ。」

キオは精一杯強がりました。あまり父親に弱い姿を見せるのはよくないと感じていたからです。自分が夜になると外に出られなくなったことを、父はきっと怒っているのだろうと感じていたのです。するとゴルが不意に足を止めました。
「ここだよ、キオ。」
ゴルの目の前には白い小さなお墓が立っています。キオは身を乗り出してその墓に刻まれた文字に目を凝らしました。
<ドク・マシュル。158年にカリスの実に包まれてここに眠る。>

キオはその文字を口に出して読みました。彼の後ろでゴルが深いため息をつきました。
「お父さん、ドクって誰なの?」
「ドクはお前の…兄さんだ。」

初めて聞く話です。キオにはよくわかりませんでした。キオには兄と姉が一人ずついます。そのほかにも兄がいたとは驚きです。
「ドク兄さんは僕が生まれる前に死んじゃったの?」
「そうだ、キオ。ドクはミアが生まれた次の年にお母さんのお腹の中にやってきたんだ。お父さんは嬉しかった。子供は何人でも欲しいと思っていたからな。だけどもうすぐ生まれるという頃になって、お母さんは病気になってしまった。とても重い病気だった。そのままドクがお腹にいたら、お母さんもドクも命が危なかった。だからお父さんはお母さんにドクを生むのをあきらめさせたんだ。」

ゴルは話を続けました。
「お母さんは泣く泣くあきらめてくれたよ。それから2年たって、またお母さんのお腹に子供ができた。キオ、お前だ。」
キオは顔をあげ、ゴルを見ました。ゴルもキオを見ました。ゴルはキオの強いまなざしに目を細めました。
「俺は怖かった。実はお母さんの体は病気が完全に治っていたわけじゃなかったんだ。俺はまた悲しいことになると思って、今度もあきらめるようにお母さんに言った。だがお母さんは今度は絶対に生むといって聞かなかった。近所の人やルイルのお母さんも反対したが、お母さんを説得することはできなかったよ。だからみんなはお母さんを応援することに決めたんだ。産婆さんは毎日お母さんの様子を見に来てくれた。パティンのお母さんも、パティンを身ごもっていたのに家まで来て手伝いをしてくれた。まだルドもミアも小さかったから助かったよ。お母さんは時折体調を崩しながらも頑張ったよ。そしてついにお前が生まれた。とても元気な赤ちゃんだった。心配して集まっていたみんなも心から祝福してくれたんだ。」

ゴルはキオの頭をなでました。
「俺は臆病だったが、お母さんとお前に勇気をもらった。お前が生まれて本当によかったと思うよ。」
「本当?本当にそう思う?」
「本当さ。お前が生まれてくれたおかげで、俺もお母さんもドクが亡くなった悲しみから立ち直れたんだ。」
ゴルはキオの頭をなでていた手を彼の右肩にまわしました。
「だからな、キオ、俺に幸せをくれたお前にも幸せになってほしいんだ。そのためにはしっかりと生きていかなくちゃならん。どんな困難にも恐れずに立ち向かってくれ。それは全て自分しだいだ。俺には見守ってやることしかできん。負けるな。」

父はキオのことを怒っているわけではありませんでした。そのことを感じたキオはほっとしました。自分がうまれたことを父が喜んでいると聞いて、キオは嬉しく思いました。

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第六章「野犬の長」【7】

彼女の腰はすっかり曲がっていて、その上半身は地面とほぼ平行でした。彼女の体を支えているのは黒くて細い杖でした。全体的には小柄なこの老婆は、犬に向かってもう一度声をかけました。
「おやめと言ってるんだよ。そこをおどき、ジャージャ。」
ジャージャと呼ばれた犬は、そこでようやく後ろへ下がってキオを自由にしました。キオはゆっくりと上半身を起こしました。ジャージャにいっぱい舐められたからでしょうか、キオは顔中を変な臭いに包まれたように思って顔をしかめました。
「ジャージャのよだれはくさいからねぇ、後で顔を洗わないと臭いは消えないよ。」

そう言って老婆は開いている右目だけをぐにゃっと曲げました。きっと笑っているんだ、とキオは思いました。
「あんた、どこの誰だね?」
「僕…白森の村のキオ・マシュルです。」
「マシュル…ああ、ゴルの息子だね。」
「おばあちゃんは、僕のお父さんを知っているの?」
「私のことはホリシカと呼んでおくれ、おばあちゃんなんてとんでもない。まあいい…あんたのお父さんのことは知ってるよ。ここに墓がある者は家族のことまでみんな知っとるよ。あんたまさか、一人で来たのかね?」
「いいえ、お父さんといっしょに来たんだけど、僕一人になっちゃって…」
「そうかい、はぐれちまったのかい。じゃああんたの家の墓へ連れて行ってやるよ。ついておいで。」

見た目はちょっと不気味ですが、優しいおばあさんのようでした。外から見た印象とは違い、この墓地はかなり広いようです。おばあさんはゆっくりと歩いています。その傍らにぴったりとくっついて歩いているジャージャは、時折キオを振り返りました。食べられる心配はなくなりましたが、それでもキオはジャージャを少し怖いと思いました。キオはやはり古森でのことを思い出していました。あの野犬たちの中で一番大きかった犬、あの犬と目が合った時のことをキオは今でもはっきりと覚えています。ジャージャはきっとその野犬よりも大きいと思いました。ジャージャはどちらかといえばずんぐりとした体型をしています。丸い顔に太い足、大きな尻尾。体の毛はほとんど茶色で、目の周りと足だけが白色をしていました。
「あんた、犬が嫌いかね?」

ホリシカはキオに尋ねました。
「うん、森で食べられそうになったから。」
「森で?古森の野犬たちのことかい?」
「うん、僕とルイルとパティンが森で囲まれて、もう少しで食べられるところだったんだ。」
「ふん、あいつらは人を食ったりなどせんよ。」
「だって、今にも飛び掛ってきそうだったんだよ。」
「あんたたちが勝手にそう思ったんじゃないのかい?ほれ、さっきみたいに…」

さっき、ジャージャはキオにじゃれているだけでした。
「古森の野犬どもは元々人間に飼われていたのがほとんどさ。どういう事情かいっしょに暮らせなくなってあの森に住み着いたんだ。人間に優しくされた記憶が残っている犬は、みだりに人を襲ったりするもんじゃないよ。犬と人間は仲良しなのさ。」
キオは黙りました。白森の村で犬と仲良くしている人を見たことはありません。ですからホリシカの言葉に納得したわけではありませんが、返す言葉もないようでした。
「それにあいつらには賢い指導者がいるからねぇ。むざむざ人間を敵に回すような真似はしないのさ。」

指導者、と聞いてキオはすぐにぴんときました。
「あの大きな野犬のこと?」
「あんた、長に会ったのかね?」
「長?長っていう名前なの?」
「そう呼ばれてるのさ。長は大したもんだよ、他の野犬どもをまとめあげてねぇ。まるであんたの父親だね。」
「僕のお父さん?」
「ゴルには人の上に立つ力があるのさ。本人にはその気がないみたいだけどねぇ。」
キオはもっとその話を聞きたそうでした。
「おっと、ゴルのことに関してこれ以上は私の口からは言えないね。知りたければ本人から聞くんだね。」

少し残念でした。父親からそんな話を聞いたことはなく、聞いても話してくれるかどうかわかりませんでした。
「じゃあもっと長の話をして。名前はなんていうの?」

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第六章「野犬の長」【6】

「キオ、昼食がすんだら墓地へ行こう。見せたい物があるんだ。」
「見せたい物って何?」
「お墓だ。」
「お墓?誰のお墓なの?」
「行けばわかるよ。」

そう言ってゴルは村のほうへ視線を落としました。ゴルはこれまでキオが見たことのない表情をしていました。それがキオにはとても不思議でした。昼食が終わり、二人は再び歩き始めました。少しすると、白い柵に囲まれた墓地が見えてきました。二人は墓地の中へ入っていきました。ゴルは真っすぐ歩いていきます。今の彼は森の中での彼とは違い、キオを振り返ることはしませんでした。ただひたすら急ぎ足で目的地に向かっていきました。キオは森を歩いた時より、さらに必死で父についていかなければなりません。キオは石につまづき、よろめいてしまいました。その拍子に肩から提げていた袋の口が開き、中に入っていた物が飛び出ました。キオは慌ててそれらを拾い集めました。ただ、ゴルはそのことに気づいていません。
「お父さん、待って…」

キオの言葉が聞こえなかったのか、ゴルはどんどん先へ進んでいってしまいました。キオが落ちた物を袋の中へ全部しまい終わった頃には、ゴルの姿はどこにもありませんでした。キオは走り出しました。でも走っても走ってもゴルの姿を見つけることができません。キオは父を探して右へ曲がったり、左へ曲がったりして走り続けました。ただどっちを見てもお墓ばかりなので、同じところをぐるぐる回っているような気がしてきました。そしてキオはとうとう走れなくなり、地べたに座り込みました。父とはぐれてしまい、彼は心細さでいっぱいでした。たくさん走ったための息苦しさが、彼の胸を余計に締め付けました。昼食時の涼しい風はぱたっと止まり、聞こえてくるのはぜいぜいという自分の激しい呼吸の音だけです。太陽はまだ高いところにありましたが、キオは古森にいたときのことを思い出しました。村人たちの墓が森の木々のように思われました。今にもあの墓と墓の間から野犬たちが飛びかかってくる様な気がしてなりません。父を呼ぼうにも声すら出ません。背後に何かの気配を感じました。じゃりっと土を踏みしめる音がします。こちらに近づいてきました。キオは振り返ることができませんでした。もし振り返り、そこに野犬がいたら、再びあの絶望を味わうことになるのです。足音はどんどん近づいてきます。ついにその音はキオの真後ろまでやってきて、ぴたりと止まりました。キオは目を見開き体を震わせながら、恐る恐る首を後ろへ向けました。それがすぐに犬だとわかり、キオはわあっと大きな叫び声を上げました。息子の悲鳴はゴルの耳にもかすかに届きました。彼はそこでようやくキオがついてきていないことに気がついたのです。ゴルは声のしたほうへ走り出しました。キオはお尻を地面にくっつけたまま後ずさりをしました。犬はこっちを見ています。犬は口を開け、舌を出し、よだれを垂らしています。この犬は自分を美味そうだと考えているに違いない、キオはそう思いました。犬の頭の後ろで何かがちらちらとしています。それは犬の尻尾でした。犬が尻尾を高く振っていたのです。きっと自分を食べることがとても嬉しいに違いない、キオはそう思いました。
「ぼ、僕なんか食べたって美味しくないぞ。あっちに行けよ。」
キオは手を振って追い払うしぐさを見せました。それを見た犬はキオに飛びかかりました。心臓が止まりそうでした。キオが身を硬くした途端、犬はキオに体当たりを食らわせました。キオはそのまま仰向けに倒れました。犬は彼の上にまたがりました。キオの頭の中は完全に混乱しました。彼は手足をばたつかせて犬をどかせようとしました。しかし犬はキオよりも大きかったのです。犬はキオの顔を舐めはじめました。尻尾はびゅんびゅん振られています。キオが落ち着くまでにいくばくかの時間がかかりました。犬はいつまでたっても彼に噛み付こうとはせず、ひたすら舐めるのみでした。ようやく違うと気づきました。
「ジャージャ、おやめ。」

それはしわがれた女性の声です。その声に反応した犬はキオを舐めるのをやめて、顔を後ろへ向けました。キオも犬と同じほうを見ました。キオと犬の視線の先には老婆が一人立っていました。髪は白くて長く、灰色の毛が何本か混じっています。顔はしわくちゃで右目を大きく開けていて、少し怒ったような表情をしています。

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第六章「野犬の長」【5】

一人ではとても寝付けそうにありません。キオの頭の中にあったのは、暗闇に浮かぶ野犬たちのギラギラとした眼です。もう少しで自分たちは野犬に食い殺されてしまうところだったと考えるたびに、彼は身震いしました。さらにはっきりと残っているのは、あの野犬の集団の中でひときわ大きかった一匹です。他の犬とは明らかに違う体格と、こちらの心を見透かしたような鋭い眼が、キオを再び毛布の中へと追い立てるのでした。

              

来年の収穫のための作業が一段落した頃、白森の村には安穏とした日が続いていました。そんな中、キオは父ゴルに連れられて外に出かけました。目的地は村の北にある白森の中央にそびえる“白森の丘”です。広大な森の中にぽつんと覗くそのはげ山には、村人たちの墓が並んでいます。死んだ者たちが白森の丘の上から村を見守ってくれていると大人たちは子供に話します。キオとゴルは日の出前、ようやく辺りがうっすらと白んできた頃に家を出ました。白森を縦断し、丘を登りきるにはとても時間がかかるのです。片道だけで大人の足でも朝に家を出てお昼前、子供が行くなら朝早くに出発してもお昼を過ぎてしまいます。ですから本当はもっと早くに家を出たかったゴルでしたが、暗いうちはキオが家を出ないと思って少々待ったのです。キオは眠い目をこすりながら、ゴルの後を付いていきました。白森の入り口に差し掛かった頃、空は徐々に明るくなり、ようやくキオの目も覚めてきました。
「キオ、今から白森に入るが…怖くないか?」
「大丈夫、怖くないよ。」

どうやら白森は平気なようでした。白森の村の南、あの騒動があった古森には、キオとルイル、パティンの三人はたとえ昼間であっても近づこうとしませんでした。それだけにゴルは、キオが白森に入ることも拒むのではないかと危惧していたのです。太陽が完全に姿を現し、白森の中にはたくさんの光が入ってきました。白森に生えている木々は白くありません。白いのは村の中にあるカリスの実が成る木だけです。カリスの実がなる木は白森の中にあったのです。この村が誕生したのは比較的新しく、数十年前のことでした。ここに移り住んできた人々はまず村の糧となる作物を探して森に入りました。その森がやがて白森と呼ばれるようになる場所でした。その森の中で人々はまばらに生えていたその木を見つけました。その木には程よく熟した実がなっていました。彼らの代表が一人その実を食べてみると、それは香りがよく、果汁も甘みも申し分ない物だったのです。彼らは白く輝く果実をカリスの実と名づけました。カリスの語源は、白くて甘いという意味の「カル・イス」という言葉がなまった