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第十三章「初陣」【10】

シノンの小さな体が宙を舞い、見事シーツの中へ落ちました。また気を失いそうなシノンを引っ張り降ろし、再びシーツが広げられました。しかしウィレオは目覚めません。キオは床に転がっていた椅子を窓の下まで持ってきました。それからウィレオを背負いましたが、やはり体がよろめいてしまいます。ドクも心配そうにしています。
行けるか?
「大丈夫。」
なら急げ。もう時間がないぞ。
炎は彼らを取り囲むように燃え広がっています。恐る恐る椅子に上がり、窓から飛び降りる地点を確認しました。
「姫は無事か?!」

キオの後ろにウィレオの顔が見え、ユスデノは焦った声を上げました。キオは落ち着いて頷き、それがユスデノを平常心に戻したのです。
「来い、キオ!」

ウィレオの重みがキオの体を痺れさせました。
思い切り、行け!
ドクの後押しでキオはシーツに向かって真っ逆さまに落ちていきました。ばさっと音がして、キオとウィレオはシーツに受け止められました。キオはしっかりとウィレオを抱えて離しませんでした。
「大丈夫か?!」
「ウィレオ姫は気絶したままです。それにまだドクが…」

その瞬間、彼らの頭上がかあっと熱く輝きました。キオたちが飛び降りた窓から激しい炎が噴き出したのです。すぐに真っ黒な煙が吐き出され、窓の辺りは何も見えなくなってしまいました。
「ドク…」
「いったい誰なんだ、ドクとは?」

ドクが犬であることをわかっていないユスデノは、炎に巻き込まれたであろう彼を気の毒に思いました。
「おい、何であんなところに…」

大馬車の屋根の上にいる男性の一人が何かを見つけたようです。彼が指差したのは金の大馬車を挟んだ、白花・赤蜜・黒蜂館の向かいにある旅館の屋根の上でした。そこに目を向けたキオはほっとした笑顔を浮かべました。同じようにユスデノもそちらに視線を投げましたが、彼はあっ気に取られました。
「どうなってる、あいつは…?」
「ドクです、僕の友達です。」

向かいの旅館の屋根に立っているのはドクでした。彼の体は炎に焦げることも黒煙に汚れることもありませんでした。その白い体を輝かせ、驚く人々を見下ろしていました。
「お前たちはまったく、どれだけ俺を驚かせるんだ?」

すぐにウィレオは病院へ運ばれましたが、命に別状は無くみんなを安心させました。シノンも同じくケガ一つありませんでした。白花・赤蜜・黒蜂館は焼け落ち、金の大馬車もぼろぼろになりましたが、犠牲者は一人も出ませんでした。ただ後のインザの証言によれば、あの“鳥”にはオーゲが乗っていたようで、彼が無事であるとはとうてい考えられません。そしてこの南星領の姫君を救った少年と犬の事は、偉大なるアーロイ市で瞬く間にうわさとなって伝えられたのでした。

    

偉大なるアーロイ市を見下ろすようにそびえる小高い丘の上から下りてきた数人の者たちは、“鳥”を飛ばした集団でした。彼らは“鳥”が役目を果たすのを見届け、隠れていた洞窟を塞いでから急いで下りてきたのです。ところがその途中、彼らの周りで笛の大きな音が鳴り響きました。彼らが脚を止めて警戒すると、その行く手を阻むように特殊遊撃隊の面々が姿を現しました。その先頭にはユスデノ、少し下がってインザ、彼に隠れるようにソマがいました。
「お前たちをウィレオ姫襲撃の犯人として拘束する。おとなしくしろ!」

ユスデノがそう言い放つと、集団の中から一人の女が出てきました。見る限り十四、五歳の娘のようです。インザにはあの女のように見えましたが、そうでないようにも見えました。娘は怯えた目をしていました。
「お待ちください。私たちはただリグ・テーテのチゴネスに頼まれただけなのです。どうかお見逃しください。」
哀願する彼女を見据え、ユスデノはこう言いました。
「残念だったな。チゴネスの息子サッテリは改めてウィレオと結婚する事を約束した。チゴネスはお前たちに人殺しを頼んだ覚えはないと言っている。金のために人の命を奪おうとしたお前たちをかばってくれる者は誰もいないぞ。」

その途端、女の顔ががらりと変わりました。それがインザの見た女の顔でした。その顔はもう娘とは呼べず、三十歳を越えているように思われました。
「あのじじいめ…裏切りやがったね…!」

忌々しいとばかりに歪んだその顔は、ユスデノさえも目を見張りました。
「お前たちは…“流浪の民”なのか?」
「だったら…どうなんだい?」
「古森の地下に隠れていたのもお前たちなのだろう?!」
「古森?さあ、知らないねえ…ばらばらになっちまってるからねえ、私たちは。おおかた別の奴らだろうよ。」
「他にもいるのか?!」

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第十三章「初陣」【9】

何度も彼女の名前を呼びましたが、返事はまったくありません。煙が立ち込めて何も見えず、キオは立ち往生してしまいました。その時ドクがキオの横を走り抜け、前方の大きな扉へ向かったのです。キオも後に続きました。扉は開いていて、ドクとキオは部屋の中へ入りました。
「シノン!」
大きな部屋の中で、倒れているシノンを見つけました。彼女の傍らには黒いドレスを着た少女が同じように倒れています。ウィレオ姫だ、とキオはすぐにわかりました。部屋の壁は一面炎を上げ、今にも焼き尽くされそうでした。シノンの元へ駆け寄ったキオは、彼女を揺り起こしました。
「起きて、シノン!」

するとシノンはゆっくりと目を開けました。彼女はぼんやりとキオを見つめています。
「…キオ…ウィレオが目を開けないの…私…ウィレオを部屋から引きずり出そうとしたんだけど…だめだったの…」

それだけいうとシノンはまた目を閉じようとしました。
「だめだ、眠らないで、シノン!ここから逃げるんだ、目を開けて!」
「逃げる…」
「ウィレオは僕が連れて行くから、シノンは一人で立って、さあ!」

ゆらゆらとシノンは立ち上がろうとしましたが、すぐキオにもたれかかってしまいました。
「大丈夫?」
「…出口が…無いわ。」

今しがたキオとドクが入ってきた扉はもう炎に包まれてしまいました。思った以上に火の勢いは早く、その恐ろしさにキオは目を見張りました。
「シノン、窓まで行くんだ。」

よろめきながらシノンは窓を目指しました。キオはウィレオを抱えて行こうとしましたが、彼よりも背丈の高い十二歳の少女を運ぶのは骨が折れました。見かねたドクがウィレオのドレスを咥えて引っ張ってくれました。何とか姫を窓の下まで運び、キオは窓から身を乗り出してみました。しかしここは白花・赤蜜・黒蜂館の最上階です。飛び降りる事などできるわけがありません。考えあぐねているキオを、ドクが見上げています。
だから止めたのだ。お前はいつも後先の事を考えずに飛び出すから。
シノンも立っていられず、膝まづいて苦しそうです。
やれやれ、せっかく生きる道を選んだというのに。お前の無茶な行動に巻き込まれてこのざまだ。
「また、やっちゃった。」

無鉄砲な彼のせいで友人を危険な目に遭わせたこともありました。
だが落ち込んでいる場合ではないぞ。
「でも…」
心配するな。お前は相変わらずだが、お前には信頼に足りる友がいる。
「え?」
道の先を見てみろ。近づいてくるぞ。

ドクに言われたとおりに、道に沿って視線を延ばしました。すると向こうから大きな物がこちらを目掛けてやってくるのが見えました。あれはこの街に来てすぐ見かけた金色に輝く大きな大きな馬車です。何頭もの馬に引かれて金の大馬車がキオたちの元へ向かってくるのです。

ただこの道の幅は狭すぎて、大馬車は建ち並ぶ旅館の塀や壁を次々に破壊しながら進んでいました。キオは馬車の屋根に人が乗っている事に気づきました。乗っているのは二人とも子供のようで、一人はのっぽ、もう一人はちびです。それはすぐにルイルとパティンだということがわかりました。ルイルは屋根の上に仁王立ちをし、何かを叫んでいます。きっと窓から顔を出しているキオに気づき、声をかけているのでしょう。一方パティンは屋根に寝そべってしがみついています。目を閉じて振り落とされないように必死です。野次馬たちは慌てて金の大馬車に道を譲っていました。その大馬車の他綱を握っているのは、インザです。インザはたった一人で何頭もの馬を操り走らせているのです。キオが見守る中、金の大馬車は白花・赤蜜・黒蜂館の真横につけました。ルイルが見上げると、下を見ているキオと目が合いました。
「すぐ助けてやるからな!」

しかしいくら金の大馬車が大きいとはいっても、まだキオたちのいる最上階とはかなり離れていました。大馬車の屋根にはベッドに使うマットが何枚にも重ねて固定されていました。大馬車の下では、インザの元へユスデノが血相を変えて走ってきました。
「インザ、これは?!」
「説明は後でします!時間がありませんから、ユスデノ様も力を貸してください!」

ユスデノはすぐに野次馬たちの中から力の津ようそうな男を数人選んで金の大馬車の屋根へ上がらせました。へっぴり腰のパティンは下へ降ろされ、ルイルはキオを元気付けるように大声を張り上げていました。ユスデノと数人の男たちは屋根の上でシーツを広げました。
「ここへ飛び込め、受け止めてやるぞ!」

手を振って返事をし、キオは窓の下でうずくまっているシノンを立たせてやりました。
「シノン、あそこにユスデノさんがいるのがわかるよね?あそこまで飛ぶんだ。」
「…無理よ、落ちちゃうわ…!」
「大丈夫、パティンやルイルが下で待ってるから、必ず助かるよ。」

熱と煙でくらくらする中、シノンは窓から身を乗り出しましたが、あと少しの勇気が出ません。
「ここで諦めたら、お父さんにもお母さんにもマレアにも二度と会えなくなるよ。白森の村の女はそんな弱虫じゃないよね!」
「…もちろんよ。」

キオに抱え上げられ、シノンは足を窓枠にかけました。そしてそのままキオが背中を押すと、シノンはふわっと窓の外へ飛び出しました。

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第十三章「初陣」【8】

シノンとワイミーも今しがた帰ったところなので都合がいいと思いました。ユスデノが見上げると、部屋の窓からウィレオが顔を出しています。きっとシノンとワイミーを見送っているのでしょう。今ではすっかり外に対する恐怖心もなくなっていました。ベールが風でまくれて顔が出てしまっていても姫は平気でいます。ユスデノにしてみればのん気なものだと呆れてしまいます。リグ・テーテから戻る途中で取り残された兵たちを迎えに行かせるため、二人を選抜して早速出発させました。それから、ウィレオが移る旅館の手配において、新たな旅館の主人が料金の事でごねていると聞いたユスデノは、仕方なくそちらへ向かう事にしました。それにしても今日は暑いくらいの晴天です。空に目を向けても小さな雲が流れていくだけです。ふとユスデノが足を止めました。雲が流れているという事は、上空は風があるという事。彼の思考が逆戻りをはじめました。ウィレオのベールが風になびいていました。上空どころか、白花・赤蜜・黒蜂館の屋根の高さでも風が吹いているということです。嫌な予感がしたユスデノは、踵を返してウィレオの元へ戻ろうとしました。その時です、彼の前方からどおんという大きな音が聞こえてきました。立ち並ぶ旅館の陰から空へ向かって黒煙が昇っていきました。
「しまった、ウィレオ!!」
慌ててユスデノは駆け出しました。大変な事が起こりました。下手をすれば特殊遊撃隊の将来が閉ざされてしまうような惨事になりかねません。ユスデノはウィレオの無事を願いながら必死で走っていきました。

    

旅館街から逃げ出そうとする人々と、白花・赤蜜・黒蜂館の周りに群がる野次馬のせいで、あたりは騒然としていました。向かってくる人の波をくぐり抜け、動かない人ごみをかき分けて、キオは燃えさかる旅館の前までやってきました。こんなに大きな建物が炎に包まれているのをキオは見たことがなく、圧倒されてしまいました。近くで同じ服を着た娘たちが、悲鳴のように何かを叫んでいました。
「大変よ!」
「姫様が!」
「シノンも!」
「火を消して!」

友の名に弾かれて、キオはその娘たちの元へ駆け寄り、ドクもまた続きました。
「ねえ、シノンはどこ?何があったの?!」
「あ、あなたは?」
「シノンの友達だよ。ねえ、シノンはどこにいるの?!」

切羽詰った顔の娘が震える手で指差したのは、赤黒く燃える白花・赤蜜・黒蜂館でした。隣にいた娘が叫びました。
「私、シノンを止めたのよ!でも姫様を助けなきゃって中へ入ってしまったの!」

青ざめた娘は言葉にならない大声を上げていました。キオは旅館をにらみつけました。あの中にシノンがいる、頭に浮かんでいたのはそれだけです。キオは娘に尋ねました。
「シノンはどこまで行ったの?!」
「ウィレオ姫様が最上階にいるから、きっとそこまで…」

するとドクがキオの服の袖を噛んで引っ張りました。
どうする気だ?!
「行かなきゃ!」
よせ!

ドクはキオの袖を離しませんでした。でもキオが力を入れて腕を上げると袖は破れて、その勢いのまま白花・赤蜜・黒蜂館の中へ入っていってしまいました。また娘たちの悲鳴が上がります。ドクはキオを追っかけました。遅れてユスデノが現場に駆けつけ、ウィレオのお付きの娘の一人を捕まえました。
「姫様とシノンがあの中にいて、シノンの友人という男の子も犬といっしょに入っていきました。」
「男の子と犬?!」
「ユスデノ様!」

野次馬の中から近づいてきた少年を見て、ユスデノはすぐには誰かわかりませんでした。
「ユスデノ様、白森の村のルイルです!ここにキオは来ませんでしたか?!」
「キオ…?」

はっとしてユスデノは炎と黒煙を噴出す旅館を見上げました。
「何て無茶を…!!」
子供たちを飲み込んだ炎の勢いは衰えを知りません。ユスデノの心は絶望という闇に覆われてしまいました。

    

白花・赤蜜・黒蜂館の一階にはさほど火が下りてきておらず、キオは熱さだけ我慢して二階へ駆け上がりました。
止まれ、キオ!引き返すんだ!
ドクが必死に呼びかけても、キオの脚は止まりません。
くそっ、しょうがない奴だ!
最上階へ近づくにつれ、あちこちで炎を見るようになり、煙のために視界も悪くなってきました。キオは腕で鼻と口を押さえ、熱さと戦いながら階段を上がりました。ついに最上階へたどり着いたキオは、シノンの姿を探しました。
「シノン!シノン!!」

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第十三章「初陣」【7】

それからキオたちはシノンの母の見舞いに来たことを告げました。みんな話したいことが一杯で、かえって何から話せばいいのかわからなくなっていました。その時です、キオがドクの異変に気がつきました。ドクは前脚を踏ん張り、低い唸り声を上げています。
「どうしたの?!」
悪意だ。
「えっ?!」
「おい、何だあれ?」

ルイルが指差したほうの空に何かが浮かんでいました。方角は旅館街の奥へ行った上空です。その姿は鳥の形をしています。それがとても大きい事はここからでもわかりました。
「この街ではあんな物が飛んでるんだね。すごいや。」
のん気そうな声を出したのはパティンでした。
「あんなの、見たことないわ。」

答えたのはワイミー。その“鳥”は浮かんでいるというより、どこかへ向かって一直線に飛んでいます。その“鳥”が向かっている先が判明した時は手遅れでした。“鳥“は白花・赤蜜・黒蜂館の屋根に突っ込んでいったのです。あっという間に“鳥”は真っ赤な炎に包まれ、少し送れてどおん、ともごおおともいう大きな音が旅館街を震わせました。少年兵たちはすぐに旅館街の奥へと集まっていきます。キオたちはあっ気に取られて声も出ません。ワイミーは腰を抜かしていました。
「ウィレオ…」

ばしっと弾かれたようにシノンが白花・赤蜜・黒蜂館へと走っていきました。
「シノン!」
「危ないぞ!」

一瞬ひるんだキオでしたが、すぐにシノンの後を追いました。ドクも彼といっしょになって駆けていきます。続いてルイルも。
「待ってよ、ルイル!」
「その子を頼むぞ!」

立ち上がれないワイミーをパティンに任せました。白花・赤蜜・黒蜂館からは黒い煙がもうもうと立ち上っていました。他の旅館からあふれ出てくる旅行客が逃げ惑い、あたりは大混乱に陥っていました。悲鳴と怒号が入り混じり、キオは今まで経験した事のない光景に脚を踏み入れていたのです。

    

強い風にあおられて、インザはようやく目を覚ましました。自分が何をしていたかを思い出すと、頭の中がすっきりとしました。ところがふと目線を揚げると、彼はおかしな物を目にしました。丘のインザが今いるところよりもう少し高い所に巨大な鳥がいたのです。正確には鳥の形をしたはりぼてでした。はりぼての鳥の周りには人が集まっています。その中にはオーゲや、隠れ家から顔を出していた女の姿もありました。インザは必死になって考えました。あのはりぼての鳥を見て、思い出さなければならない事があると感じたのです。“鳥”の周りの人々はオーゲと握手を交わしていました。最後に女と抱擁を交わすと、誇らしげな表情のオーゲは“鳥”の中に入ってしまいました。しまった、とインザは丘を全速力で駆け下りていきました。しかし、あの“鳥”を止めるためには遅すぎました。“鳥”のくちばしが偉大なるアーロイ市に向けられている事を知り、やっと思い出したのです。金の大馬車の上空で“鳥”が炎に包まれた事を。インザは自分が寝過ごしてしまったことを呪いました。“鳥”の周りにいた者たちは力をあわせて“鳥”を押し出しました。“鳥”は斜面を滑り降り、徐々に加速されていくと、ついには強風に乗って空高く舞い上がりました。“鳥”の中いるオーゲは舵を取り、風の流れに乗りました。死に物狂いでひた走るインザをあっという間に追い越し、“鳥”は偉大なるアーロイ市の旅館街へ吸い込まれていきました。インザは走るのをやめて、なす術もなく“鳥”の行方を目で追いました。“鳥”は旅館街の中でも頭一つ抜け出た高さの白花・赤蜜・黒蜂館の屋根めがけて突っ込みました。大きな赤い玉が弾けます。やがてインザの顔を苦悩に歪ませる轟音が鳴り響きました。ぜえぜえと息を切らしたインザはその場に立ち尽くし、ただその光景を眺めるほかありませんでした。

    

リグ・テーテに向かった部下が戻ったとの知らせを受け、ユスデノは白花・赤蜜・黒蜂館の前で彼らを待ちました。ところが、そこに現れたのは幼いソマ一人だけで、ラスゼンの姿はありません。ユスデノの姿を見たソマは安堵のあまり泣きじゃくり、しばらくは話になりませんでした。彼の気持ちがようやく落ち着き、ユスデノにこれまでのいきさつを語って聞かせました。ユスデノはこれで全ての疑問に納得がいきました。一番の懸念材料はチゴネスと取引をしたムルテアという女と、金の大馬車の前に落ちた“鳥”のことです。この二つが結びつくなら、それはとても恐ろしい事でした。ウィレオは結婚をするつもりでここまで来ているのに、命を狙われる羽目になっているのかもしれないのです。あの“鳥”がここへ飛んできたらとんでもない事になります。しかし今日は朝から少しの風も吹いていません。今のうちにウィレオを別の旅館に移さなければとユスデノは考えました。

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第十三章「初陣」【6】

「金の大馬車って何だ?」
「金色の大きな馬車…かな?」
「ばか、そのままじゃないか!」
やがて彼らは見上げるほどに大きな金色の馬車を前にして、口をあんぐりと開けました。どうして馬車がこんなに大きいのか、彼らは皆目見当もつきませんでした。ところが、その大馬車に見とれているうちにもっと驚く事を目にしました。金の大馬車の周りにあの少年兵たちの姿を見たからです。特殊遊撃隊がこの街に来ている事を知り、キオは何だか胸騒ぎがしました。金の大馬車の前を通り過ぎ、教えられたとおりに街道を進むと、彼らは大ロマセテ病院の大きな建物の前に到着しました。
「何でもかんでも大きいんだなぁ。」
ルイルがぽつりとつぶやきました。馬車とドクをそこに待たせ、キオたち七人はミロアの病室へ向かいました。病室に入ると、デムもシノンも姿は無く、ミロアはベッドの上にいました。やつれ果てた彼女の姿にシアやムアリィは胸を詰まらせました。でもミロアは懐かしい顔ぶれを前にとても嬉しそうでした。子供たちは彼女がシノンの母だとはすぐには信じられませんでした。ただ声は聞き覚えがあり、それでミロアだとわかったのです。
「デムは仕事に行ってるわ。シノンはお友達のところへ行ってるはずよ。」

彼女の話題は金の大馬車に移っていきます。ミロアは実物を見た事はありませんが、シノンから話を聞いていました。彼女はこの街に領主カロエンの三女・ウィレオが来ていることをキオたちに教えてやりました。そのウィレオ姫と友達になったとシノンが言っていることを伝えると、ルイルは疑わしげな顔になりました。
「まさか。」
ルイルだけではなく、誰にとっても信じがたい話でした。その真偽を確かめるためには本人に聞くしかありません。
「じゃあ俺たちも行ってみようぜ!」
ルイルの一声でキオとパティンもウィレオのいる旅館へ行く事になりました。病院を出るとドクがむくっと顔を上げました。かくして三人と一匹は白花・赤蜜・黒蜂館を目指します。途中の道すがら、やはりドクは注目の的でした。そういえばこの街でも犬の姿は一匹も見ていません。
「みんな犬がよっぽど珍しいんだな。」
「僕たちも古森の野犬かジャージャしか見たことないもんね。」
「ジャージャといえばこの前はドクを怖がってたけど、けんかでもしたのか?」
「そういえばそうだね。でも犬同士の事はよくわかんないよ。」

そんな事を話していうるうちに、旅館街の入り口を見つけました。
「あそこにも兵隊がいるぞ。ラスゼン様もいるのかな。」
ラスゼンに会いたがっているのはルイルだけで、キオは元よりパティンでさえもあまり乗り気ではありませんでした。警備中の少年兵に近づき、シノンの友達だから中に入りたいと言ってみましたが、断られてしまいました。
「俺たち本当に白森の村でシノンとよく遊んでた友達なんだぜ!」
「例えそうでも通せないものは通せないんだ。」
少年兵の話し振りからするとシノンとウィレオ姫が友人だというのは真実のようでした。
「シノンは今ウィレオ姫のところへ行ってるの?」
「それも言えない。」
「ちぇっ、けちな奴だな。」
「どうしよう、一度病院へ戻ろうか?」
するとパティンが旅館街の奥を見つめていました。目を凝らして何かを眺めています。
「どうしたんだよ?」

「ねえ、あれ…シノンじゃない?」
パティンの指差した方向から、人影が二つこちらに近づいてきます。キオとルイルも目を細めてその姿を認識しようとしました。徐々にこちらへ近づいてくる人影はどちらも子供で女の子のようでした。
「やっぱり…」
パティンだけは確信したようです。手を振って彼女の名を呼びました。一方、呼ばれたシノンは辺りをきょろきょろと見回しています。
「誰かに呼ばれたわ。」
周りには少年兵しかいませんが、まさか彼らが声をかけてくるなんて思えません。
「あそこで手を振っている人がいるわ。誰かしら?」
声の主に先に気づいたのはワイミーでした。見慣れぬのっぽの少年がこちらに向けて手を振っているのです。でもシノンには懐かしい姿です。
「パティンだわ…!キオも、ルイルも!!」
久しぶりの再会です。もう何年も会っていなかったような思いでした。ワイミーを置き去りにして三人の元へ走り出しました。全速力で駆け抜けて、三人の前でも勢いが止まらずにパティンへ体ごと飛び込んでしまいました。体当たりを食らったパティンは後ろによろよろとしながらシノンを抱きとめました。まだびっくりした顔のシノンはパティンを見上げ、次いでキオを、さらにルイルの顔に目を向けました。
「あんたたち、こんな所で何やってるの?!」
三人は笑い始めました。彼女の元気な姿と懐かしい声を聞けたから。
「どうして笑ってるのよ?」
つられてシノンも笑いました。遅れてやってきたワイミーはぽかんとしています。それからシノンはワイミーを三人に紹介し、三人はワイミーに挨拶をしました。そして三人の後ろにいたドクの姿にシノンははっとしました。
「その子って、長よね?!」
「そう、でも今はドクって名前になってキオといっしょに暮らしてるんだぜ。」
「えー!本当なの、キオ?!」
キオは照れ臭そうに頷きました。

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第十三章「初陣」【5】

姿かたちは違えど、ヤスブはこの老兵にノドモスの面影を重ね合わせていました。今ごろ彼はどうしているのだろう。彼が最後に見たノドモスは瀕死の重傷を負い、意識もありませんでした。ですからノドモスに対して感謝の言葉どころか、別れの言葉さえも交わしていませんでした。すでに亡くなっているとは思いたくありませんでしたが、あんな形でノドモスと離れてしまったことを悔やんでいるヤスブなのでした。
「頼むよ、ここで足取りが途切れてしまったら、もうお手上げなんだ。」
「残念だが、私にも門番としての務めがある。君には何も教えてやれぬ。」

今にも掴みかかりそうなレゴの前に体を押し入れ、ヤスブは老兵にこう言いました。
「私はヤスブ、彼はレゴといいます。あなたを困らせるようなことを聞いて申し訳ないと思っている。」
「では諦めて帰ってくれ。」
「…できぬのだ。」
「なぜ?」
「私は彼女に謝罪を、彼は大切な約束を交わすために旅をしてきた。だからここで諦めるわけにはいかないのだ。」

ヤスブよりも頭一つ背の低い老兵は、身に余る大きさの鎧をつけています。しかし彼は決してひるむことなく、堂々と目の前の騎士二人と対峙していました。槍を掴む手の力強さに、門番の意地にかけてもここを動かないといった心情がうかがえます。もし門の前から門番がいなくなったら、その城には見知らぬ者が勝手に入る事も可能になってしまいます。老兵はそのことを肝に銘じており、だからこそレゴの問いにも答えを出してはくれないのです。老兵はうなだれるレゴに問い返しました。
「どこから来たのだ?」

その答えはヤスブがマントの下の鎧に刻まれた紋章を見せることで示されました。
「バドか。」
「我々はマセノアへ行き、そこから祖国へ戻る途中でした。しかしリグ・バーグで連れをフェリノア兵にさらわれました。それを追ってきたのです。」

老兵は眉間にしわを寄せ、うんざりしたようにため息をつきました。でも決して目の前の二人にうんざりしたわけではありません。

「深い事情は問わないほうがよさそうだ。それにしても我がフェリノア軍の横暴さは目に余るものがある。戦争が終わっている事を理解できず、周辺国と協調を保とうという自覚に欠けて身勝手な振る舞いを繰り返す。実に嘆かわしい。」
ヤスブは驚きました。フェリノアにもこのような発言をする兵士がいるなんて思っていなかったのです。
「たった二人で来たのか?」
「そうです。」
「フェリノアは広い。これからも二人で進むのか?」
「心変わりはありません。」
「あいつらがここを出てから今日で四日目だ。」

ふいに返答され、ヤスブは戸惑いました。
「四日目?」
「確かに一人だけ娘がいた。しかしその娘は表情を失い、生きているか死んでいるかわからなかった。」

顔を上げたレゴはヤスブと目を合わせて頷きました。
「我々が探している連れに間違いないでしょう。」
「奴らは第四王子オセアス様お抱えの兵だ。それでも追うのか?」
「俺達が興味があるのはイオニーネだけだ。」
「それが娘の名か。美しい響きだ。奴らはいったん南へ下り、パラーラの森を目指すと言っていた。」
「パラーラの森?」
「行きましょう、ヤスブ様。」

急いでレゴは馬にまたがり出発しようとしました。それを老兵が止め、彼らに袋を一つ手渡しました。中には水と食料が入っていました。
「私の弁当だが持っていけ。パラーラの森までは遠いと聞く。いくらあっても邪魔にはならんだろう。」
「何から何まで感謝します。あなたの名は?」
「キーマスだ。気をつけて行かれよ。」
「あなたもお元気で、キーマス!」

南の方角へ向かって去っていく二人の後姿を、キーマスはいつまでも見守っていました。おそらく生きては戻れまいと悲しく思いながら。

    

白森の村を発ってから四日目の朝、キオたちはようやく偉大なるアーロイ市に到着しました。子供たちはその街の大きさに驚きました。建物の高さと人の多さにドクもきょろきょろと落ち着きません。七人と一匹はまずミロアが入院している大ロマセテ病院を目指しました。何度か通行人に道を尋ねるうちに、“金の大馬車”を目指すと良い、と三人に言われました。

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第十三章「初陣」【4】

オーゲを尾行しているインザは偉大なるアーロイ市を出て、小高い丘へと上っていきました。辺りを用心深く見回しながら、オーゲは丘の中腹へ差し掛かりました。腕の痛みからか、時おり彼の顔がぐにゃっと歪みます。岩陰に身を潜めながらインザが様子を伺っていると、オーゲは丘の斜面を掴んで引き剥がしました。ところが、はがしたのは地面に似せた色の分厚い布でした。その布の下からはぽっかりと開いた穴が現れました。もう一度周囲に気を配り、オーゲはその穴の中へ入っていきました。旅行者があんな穴の中へ入っていくなどありえません。すぐにユスデノに知らせたいと思いましたが、インザはもう少し彼の正体を見極めようと思いました。丘の上には風が少し吹いています。インザは懐からチーズを取り出してひとかじりしました。穴はまた布で隠され、そこはどう見てもただの丘の斜面にしか見えなくなりました。あの穴自体、インザが見た限りでは自然にできたものではないようでした。体に当たる風が生温かくなっていた事に気づき、インザは空へ目を向けました。太陽は遮られ、低い雲が立ち込めています。すぐにぽつり、ぽつりと雨が落ちてきました。雨粒は決して大きくありませんでしたが、その足は速く、インザはすぐに全身をしっとりと濡らしました。すると斜面の布がごそごそと動き、少しだけ穴が現れました。そこから人が顔を出しましたが、それはオーゲではありませんでした。インザはどきっとしました。それは女でした。若いようにも見え、そうでないようにも見えました。恐ろしくも見え、そうでないようにも見えました。彼女は細く降り注ぐ雨を恨めしそうに見上げています。オーゲは一人ではなく仲間がいる、あの女の事も知りたい。そう思った途端、その穴の中がどうなっているのかという興味に駆られました。細く長い雨粒がインザの体を冷やします。彼は体を小刻みに震わせながらも、決してオーゲの隠れ家から目を離そうとはしませんでした。その雨は夜中まで降り続きました。夜が明けると雨雲はどこかへ消え失せ、澄みきった青空が広がっています。風もなく穏やかに光に照らされ、ついインザはうとうととしてしまいました。毎日の激務が彼の小さな体に疲労を蓄積させ、抗う術もなくインザは睡魔に身を委ねたのです。

    

偉大なるアーロイ市へ急ぐ少年兵の姿は一人になっていました。もう一人は馬が脚を負傷したため、その場に残る事にしました。馬に負担がかかると目的地への到着が遅れる事を恐れたのです。遅れてくるであろう仲間の馬に乗せてもらうから心配するなと、不安げな彼を送り出しました。馬を走らせる彼の名はソマ。今回リグ・テーテへ向かった少年兵の中で最も年下の彼は、自信なさげに馬を走らせました。たった一人でこのように重要な仕事を任された事がなかったのです。リグ・テーテに向かう時はあんなに賑やかで楽しかったのに、今は一人ぼっちです。彼の不安を映し出すように、大空を雨雲が覆いました。やがて細かな雨が降り始めました。辺りはもやに包まれたようになり、ソマの視界を遮りました。馬の頭から先がまったく見えません。ソマは孤独と不安と恐怖に心を支配されてしまいました。急がなければならないのはわかっているのに、ソマは馬を止めてしまいました。せめてこのもやが晴れるまでと、彼は待ちました。長い時間が過ぎてしまったように思われました。彼の前方の視界が少し開けてきたので、馬をゆっくりと歩かせました。冷たい雨が彼の体温を下げ、吐き出した息は白く煙っていました。やがてもやがほとんどなくなると、ソマにも少し元気が出てきました。馬にも彼の勇気が伝わり、走り始めました。ユスデノや仲間の待つ、偉大なるアーロイ市へあと一息です。凛とした表情が彼の成長を物語っていました。走って、走って、走り続けると、はるか彼方に町の姿が見えてきました。ようやくたどり着いたと彼はほっとしました。偉大なるアーロイ氏はみるみるソマに近づき、彼を受け入れました。雨はまだ降り続いていましたが、彼の心は晴れ晴れとしていました。

    

相変わらずすっきりとしない天候の下、ヤスブとレゴは赤塩城に着きました。所々の壁が崩れている小さな城です。彼らはマントを頭からかぶり、バドの紋章が入った鎧を隠しました。城に近づくと、門の前には老兵が一人立っています。ヤスブより二十ほど年上のようです。この老いた門番は、は見慣れない二人の若者の出現に警戒を強めています。
「俺たちは怪しい者じゃない。聞きたいことがあるんだ。」

老兵は二人をじっくりと観察しました。
「…話されよ。」

そこでレゴは女を一人連れた十数名の兵士を探していて、この城に立ち寄ったのではないかと尋ねました。老兵はしばし考え、ゆっくりと横に首を振りました。
「あなた方に答えられる事は何もない。」
「教えてくれないか。何でもいいんだ。」
門番といえど老兵は目に強い力を宿しているとヤスブは感じました。右手に持っている槍は柄を地面に垂直に立てられ、刃先は天空に向けられています。

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第十三章「初陣」【3】

ウィレオは部屋で一人ため息をついていました。昨日のシノンとワイミーとの会話の後から、昔のことを思い出してばかりいるのです。小さい頃の彼女の夢は、白い花嫁衣裳をまとって愛する殿方と大きな教会で結婚式を挙げることでした。でも今さら白いドレスなんて着れないと彼女は思っていました。今日はまだ二人が来ません。学校ではシノンが先生にへらず口を叩いたため長い説教を受けていて、ワイミーはそれが終わるのを待っていました。ウィレオはそんな事など知る由もありません。退屈だとなおさら白いドレスが彼女の頭にちらつきました。窓を開けて外を眺めていると、下のほうが何やら騒がしい事に気がつきました。騒動の元はインザでした。彼のところへやってきたユスデノの顔は思いのほか深刻な様子でした。インザが人を斬ってしまったのです。斬られたのは中年のやせた男性です。彼は左の二の腕にインザの一太刀を浴びました。傷口からはどくどくと血が流れています。すぐに特殊遊撃隊の衛生兵が男性の応急処置にかかりました。インザの言い分によると、男性はあきらかに不審な態度を取っていたというのです。建物の陰に隠れながら赤花・白蜜・黒蜂館の様子を伺っていたというのです。先日インザが見かけた不審者と同一人物でした。だから彼はその男性に声をかけましたが、その男性が逃げようとしたので剣を抜いたのです。しかしその男性がウィレオの泊まっている旅館を調べていたという証拠はどこにもありません。男性の言い分はこうでした。男性は名をオーゲといい、リグ・バーグからやってきた旅行者で、一度この赤花・白蜜・黒蜂館を見たかったというのです。それで遠巻きに眺めていたところをインザに呼び止められました。しかし相手は子供とはいえ、鎧を身に着けて腰には剣を帯びています。オーゲは怖くなって逃げようとして、いきなり斬られたという事でした。しかしインザは断固として、この男は怪しいと言い張ります。珍しく冷静さを欠いているインザを制し、ユスデノがオーゲに謝罪しました。
「他国からの旅行者であれば聞き及んでいなかったかもしれませんが、現在この地域は特別警戒中なのです。我が部下も任務を全うするために先走ってしまったのです。どうかお許しを。インザ、罰としてお前を今回の任務から外す。鎧を脱ぎ剣を置け。」

自分に言われたわけでもないのに、ユスデノの一喝にオーゲは少しひるみました。インザも仕方なく剣を投げ捨て、鎧を脱ぎ始めました。それを見たオーゲの顔が少し緩みました。
「あ、ああ…まあ仕方がないでしょう。私もきょろきょろし過ぎたのかもしれません。」
「恐縮です。では傷の治療をいたしましょう。病院へご案内いたします。」

その時、オーゲの表情がさっと変わりました。
「いえ、治療はこれだけでもう結構。大したケガでもありませんし。」

それだけ言うとオーゲは先を急ぐようにユスデノたちの前から去っていきました。

インザはすぐにユスデノに食って掛かりました。
「ユスデノ様、奴は旅行者などではありません!」
「奴は…大したケガではないと言っていたが、斬った時の手ごたえはどうだった?」

オーゲの服の裾は出血のため真っ赤に染まっていました。
「私の刃は奴の腕をしっかりと捕らえました。きっと物も持てぬほどの痛みがあるはずです。」

ユスデノはオーゲの手当てをした衛生兵に、彼の傷の具合を確かめました。オーゲの傷はかなり深く、おそらく骨まで達しているかどうかの大ケガだと衛生兵は証言しました。
「ならばインザ、あらためて彼に謝ってくるんだ。」
「しかし…!」
「いいから、すぐに後を追え。気づかれんようにな。場合によっては謝る必要はなくなるかもしれんが。」

インザははっとしてすぐにユスデノの意図を汲み取りました。インザや衛生兵のの言うとおりなら、オーゲは相当の傷を負っているはずです。なのに彼はあっさりとユスデノたちを許し、病院にさえ行こうとはしませんでした。疑う余地があるという事です。ユスデノはインザにオーゲを尾行するように命じたのです。任務を解かれたのもオーゲを油断させるためのものでした。しかし鎧も剣も外してしまっているため、今のインザは丸腰です。再び装備し直す時間はありません。
「あくまでも奴の動向を探るだけだ。無茶はするなよ。」
「了解しました。」

インザはすぐにオーゲの後を追いました。彼を見送ったユスデノは、空気がぴりぴりと張り詰めてきているのを感じました。急ぎウィレオのお付きの娘たちに荷物をまとめておくように指示しました。いつでもここを出られるようにしなければならないと考えたのです。今度は姫にも文句を言わせません。ウィレオのみに危険が迫っているという推測がいよいよもって現実味を帯びてきたのです。しかし当のウィレオはその自覚がなく、窓から顔を出して大きなあくびをしていました。

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