第六章「野犬の長」【13】
「そんな当たり前のこと言われても…」
「ほら見ろ!だったら間に合うかどうかなんて誰にもわかんないじゃないか。それなのに落ち着けるわけないだろ、馬鹿じゃないのか!」
ルイルの罵声にパティンもさすがにむっとしたような顔をしました。
「けんかはやめてよ。」
シノンの声でした。でもその声はとても弱々しく、頼りなげです。
「間に合わないなんて言わないで…」
シノンは泣きそうになりました。
「間に合わないって、そんな意味で言ったんじゃないよ。…キオ、いいからもっと速く行けよ!」
馬車はようやく村を出ました。そして彼らの目の前には古森の入り口が迫ってきました。枝を広げた古森の木々が、まるで手招きをしているようでした。彼らにとって恐ろしいのは野犬だけではありません。白森と違って、ここの木々は黒っぽい樹皮のものが多く、夜にはそれこそ真っ暗になってしまうのです。月明かりさえも当てにはできません。ですから古森に入るときは松明を絶対に忘れてはならないのです。
「忘れた…」
パティンの言葉にキオとルイルは血の気が引くようでした。ルイルは慌てて馬車の中を探しました。ひょっとしてヒャトンじいさんが用意してくれているかもしれないと思ったのです。
「キオ、松明がないよ!取りに戻ろう、ひき帰せよ!」
ルイルの叫びにキオは反応しません。
「キオってば!」
「戻らないよ。もうそんな時間はないよ。これでひき帰したら本当に夜になっちゃうよ。」
キオはできるだけ速く馬を走らせようとしました。でも古森の道は曲がりくねっていました。歩いてこの森に入ったときはそんなことを感じませんでした。でも今回は右に曲がったかと思うとすぐまた左に曲がります。ですから思ったように速度を上げることができません。さらには真っ直ぐになったと思ったら上ったり下ったりと息つく暇もありません。気持ちは焦るばかりで、どれだけ前に進んだかもわかりませんでした。枝の間からわずかに空が覗けました。空は濃いオレンジ色の池に黒い水が差し込まれたようになっています。もう日が完全に沈んでしまいそうになっていました。いつの間にかこんなに時間がたっていたのです。古森の木は黒い柱に化け、彼らの行く手を塞ぎます。少し先の道さえも見えにくくなってきました。このままでは前に進めなくなってしまいます。無理に進んで道を外れたら、馬車は木にぶつかってしまうでしょう。一度止まったほうがいいのかもしれない、キオはそんな風に考えていました。遠吠えがしました。それは三人の耳にもはっきりと聞こえました。でも、ひょっとしたら気のせいかもしれない、と三人はそれぞれに思いました。それは切なる願いでもありました。
「犬だわ。」
シノンの耳にも聞こえたようです。空耳ではなかったのです。パティンは驚きと恐怖のあまり、目が開ききっています。ルイルの緊張も頂点に達していました。キオもぶるっと震えました。あの日の記憶が鮮明によみがえります。もう止まれません。いくら野犬が人を襲わないと聞かされていても、それで不安がなくなるというわけではないのです。
今度は違う方向から犬の泣き声がします。もう真っ暗になる直前です。キオの目の前には真っ暗な道が続いていました。急がなければなりませんが、いつまた道が曲がるかわかりません。止まるべきか、止まってはいけないのか、キオは迷いました。迷いすぎて吐き気がするような気がしました。ふと、何かの気配を感じました。それは右にいます。馬車と並行して進んでいます。彼は視線を右へ向けました。暗闇の中に、白くぼうっと浮かぶものがあります。それは走っていました。馬車と同じ速度で走っていました。キオは顔をその白く走る物に向け、目を凝らしました。犬…野犬です!野犬がこの馬車を追って走っているのです。キオは野犬から目を離すことができません。その犬は首をぐっと前に突き出し、手足を大きく伸ばして走っています。とてもきれいだとキオは思いました。その時、野犬もキオのほうへ顔を向けました。キオはどきっとしました。あの日です。あの時、吸い込まれそうになったあの目です。あの犬が再び現れたのです。闇夜に浮かぶその体は、あの時よりも一回り大きく感じられました。この犬がホリシカばあさんの言っていた、野犬の指導者“長”に違いないとキオは確信しました。キオと長は目を合わせたままでした。真っ白だったんだ、とキオは思いました。キオは長の姿にますますのめりこみました。
…。
彼ははっとして、後ろのルイルとパティンを見ました。
「ば、馬鹿!ちゃんと前を見ろよ、ぶつかるぞ!!」
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