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第六章「野犬の長」【8】

「さて、何て名前なのかねぇ。元々野犬どもを名前で呼んだりしないからねぇ。気がついたらあいつは他の犬どもを引き連れていたよ。そのうちに自然と長って呼ばれるようになったのさ。」
キオの記憶の中で、確かにあの犬だけは違っていました。キオはあの犬と目が合いました。ひょっとしたら彼がそう思っているだけかもしれません。でも、あの目の輝きは他の野犬たちにはありませんでした。暗闇の中で松明の炎に照らし出された鋭い表情は、キオに強烈な印象を残していました。いつの間にかキオはもう一度あの犬に会いたいと思うようになっていました。前方からキオを呼ぶ声がします。ゴルが駆けてきました。

        

このホリシカばあさんは墓地の管理人です。もう何十年もずっとここで暮らしているのです。村まで下りてくるのは年に二回あるかないかです。パティンはおばあさんを怖いと言っていましたが、キオは全然怖くなんかないと思いました。ホリシカばあさんの小屋でキオは顔を洗いました。ジャージャのよだれの臭いがなくなったようにキオは思いました。それからゴルとキオはあらためて墓地の中を歩いていきました。
「悪かったな、キオ。お父さん考え事をしていて先に行ってしまったんだ。怖かったろ?」
「ううん。ホリシカさんとジャージャがいてくれたから平気だったよ。」

キオは精一杯強がりました。あまり父親に弱い姿を見せるのはよくないと感じていたからです。自分が夜になると外に出られなくなったことを、父はきっと怒っているのだろうと感じていたのです。するとゴルが不意に足を止めました。
「ここだよ、キオ。」
ゴルの目の前には白い小さなお墓が立っています。キオは身を乗り出してその墓に刻まれた文字に目を凝らしました。
<ドク・マシュル。158年にカリスの実に包まれてここに眠る。>

キオはその文字を口に出して読みました。彼の後ろでゴルが深いため息をつきました。
「お父さん、ドクって誰なの?」
「ドクはお前の…兄さんだ。」

初めて聞く話です。キオにはよくわかりませんでした。キオには兄と姉が一人ずついます。そのほかにも兄がいたとは驚きです。
「ドク兄さんは僕が生まれる前に死んじゃったの?」
「そうだ、キオ。ドクはミアが生まれた次の年にお母さんのお腹の中にやってきたんだ。お父さんは嬉しかった。子供は何人でも欲しいと思っていたからな。だけどもうすぐ生まれるという頃になって、お母さんは病気になってしまった。とても重い病気だった。そのままドクがお腹にいたら、お母さんもドクも命が危なかった。だからお父さんはお母さんにドクを生むのをあきらめさせたんだ。」

ゴルは話を続けました。
「お母さんは泣く泣くあきらめてくれたよ。それから2年たって、またお母さんのお腹に子供ができた。キオ、お前だ。」
キオは顔をあげ、ゴルを見ました。ゴルもキオを見ました。ゴルはキオの強いまなざしに目を細めました。
「俺は怖かった。実はお母さんの体は病気が完全に治っていたわけじゃなかったんだ。俺はまた悲しいことになると思って、今度もあきらめるようにお母さんに言った。だがお母さんは今度は絶対に生むといって聞かなかった。近所の人やルイルのお母さんも反対したが、お母さんを説得することはできなかったよ。だからみんなはお母さんを応援することに決めたんだ。産婆さんは毎日お母さんの様子を見に来てくれた。パティンのお母さんも、パティンを身ごもっていたのに家まで来て手伝いをしてくれた。まだルドもミアも小さかったから助かったよ。お母さんは時折体調を崩しながらも頑張ったよ。そしてついにお前が生まれた。とても元気な赤ちゃんだった。心配して集まっていたみんなも心から祝福してくれたんだ。」

ゴルはキオの頭をなでました。
「俺は臆病だったが、お母さんとお前に勇気をもらった。お前が生まれて本当によかったと思うよ。」
「本当?本当にそう思う?」
「本当さ。お前が生まれてくれたおかげで、俺もお母さんもドクが亡くなった悲しみから立ち直れたんだ。」
ゴルはキオの頭をなでていた手を彼の右肩にまわしました。
「だからな、キオ、俺に幸せをくれたお前にも幸せになってほしいんだ。そのためにはしっかりと生きていかなくちゃならん。どんな困難にも恐れずに立ち向かってくれ。それは全て自分しだいだ。俺には見守ってやることしかできん。負けるな。」

父はキオのことを怒っているわけではありませんでした。そのことを感じたキオはほっとしました。自分がうまれたことを父が喜んでいると聞いて、キオは嬉しく思いました。

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第六章「野犬の長」【7】

彼女の腰はすっかり曲がっていて、その上半身は地面とほぼ平行でした。彼女の体を支えているのは黒くて細い杖でした。全体的には小柄なこの老婆は、犬に向かってもう一度声をかけました。
「おやめと言ってるんだよ。そこをおどき、ジャージャ。」
ジャージャと呼ばれた犬は、そこでようやく後ろへ下がってキオを自由にしました。キオはゆっくりと上半身を起こしました。ジャージャにいっぱい舐められたからでしょうか、キオは顔中を変な臭いに包まれたように思って顔をしかめました。
「ジャージャのよだれはくさいからねぇ、後で顔を洗わないと臭いは消えないよ。」

そう言って老婆は開いている右目だけをぐにゃっと曲げました。きっと笑っているんだ、とキオは思いました。
「あんた、どこの誰だね?」
「僕…白森の村のキオ・マシュルです。」
「マシュル…ああ、ゴルの息子だね。」
「おばあちゃんは、僕のお父さんを知っているの?」
「私のことはホリシカと呼んでおくれ、おばあちゃんなんてとんでもない。まあいい…あんたのお父さんのことは知ってるよ。ここに墓がある者は家族のことまでみんな知っとるよ。あんたまさか、一人で来たのかね?」
「いいえ、お父さんといっしょに来たんだけど、僕一人になっちゃって…」
「そうかい、はぐれちまったのかい。じゃああんたの家の墓へ連れて行ってやるよ。ついておいで。」

見た目はちょっと不気味ですが、優しいおばあさんのようでした。外から見た印象とは違い、この墓地はかなり広いようです。おばあさんはゆっくりと歩いています。その傍らにぴったりとくっついて歩いているジャージャは、時折キオを振り返りました。食べられる心配はなくなりましたが、それでもキオはジャージャを少し怖いと思いました。キオはやはり古森でのことを思い出していました。あの野犬たちの中で一番大きかった犬、あの犬と目が合った時のことをキオは今でもはっきりと覚えています。ジャージャはきっとその野犬よりも大きいと思いました。ジャージャはどちらかといえばずんぐりとした体型をしています。丸い顔に太い足、大きな尻尾。体の毛はほとんど茶色で、目の周りと足だけが白色をしていました。
「あんた、犬が嫌いかね?」

ホリシカはキオに尋ねました。
「うん、森で食べられそうになったから。」
「森で?古森の野犬たちのことかい?」
「うん、僕とルイルとパティンが森で囲まれて、もう少しで食べられるところだったんだ。」
「ふん、あいつらは人を食ったりなどせんよ。」
「だって、今にも飛び掛ってきそうだったんだよ。」
「あんたたちが勝手にそう思ったんじゃないのかい?ほれ、さっきみたいに…」

さっき、ジャージャはキオにじゃれているだけでした。
「古森の野犬どもは元々人間に飼われていたのがほとんどさ。どういう事情かいっしょに暮らせなくなってあの森に住み着いたんだ。人間に優しくされた記憶が残っている犬は、みだりに人を襲ったりするもんじゃないよ。犬と人間は仲良しなのさ。」
キオは黙りました。白森の村で犬と仲良くしている人を見たことはありません。ですからホリシカの言葉に納得したわけではありませんが、返す言葉もないようでした。
「それにあいつらには賢い指導者がいるからねぇ。むざむざ人間を敵に回すような真似はしないのさ。」

指導者、と聞いてキオはすぐにぴんときました。
「あの大きな野犬のこと?」
「あんた、長に会ったのかね?」
「長?長っていう名前なの?」
「そう呼ばれてるのさ。長は大したもんだよ、他の野犬どもをまとめあげてねぇ。まるであんたの父親だね。」
「僕のお父さん?」
「ゴルには人の上に立つ力があるのさ。本人にはその気がないみたいだけどねぇ。」
キオはもっとその話を聞きたそうでした。
「おっと、ゴルのことに関してこれ以上は私の口からは言えないね。知りたければ本人から聞くんだね。」

少し残念でした。父親からそんな話を聞いたことはなく、聞いても話してくれるかどうかわかりませんでした。
「じゃあもっと長の話をして。名前はなんていうの?」

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第六章「野犬の長」【6】

「キオ、昼食がすんだら墓地へ行こう。見せたい物があるんだ。」
「見せたい物って何?」
「お墓だ。」
「お墓?誰のお墓なの?」
「行けばわかるよ。」

そう言ってゴルは村のほうへ視線を落としました。ゴルはこれまでキオが見たことのない表情をしていました。それがキオにはとても不思議でした。昼食が終わり、二人は再び歩き始めました。少しすると、白い柵に囲まれた墓地が見えてきました。二人は墓地の中へ入っていきました。ゴルは真っすぐ歩いていきます。今の彼は森の中での彼とは違い、キオを振り返ることはしませんでした。ただひたすら急ぎ足で目的地に向かっていきました。キオは森を歩いた時より、さらに必死で父についていかなければなりません。キオは石につまづき、よろめいてしまいました。その拍子に肩から提げていた袋の口が開き、中に入っていた物が飛び出ました。キオは慌ててそれらを拾い集めました。ただ、ゴルはそのことに気づいていません。
「お父さん、待って…」

キオの言葉が聞こえなかったのか、ゴルはどんどん先へ進んでいってしまいました。キオが落ちた物を袋の中へ全部しまい終わった頃には、ゴルの姿はどこにもありませんでした。キオは走り出しました。でも走っても走ってもゴルの姿を見つけることができません。キオは父を探して右へ曲がったり、左へ曲がったりして走り続けました。ただどっちを見てもお墓ばかりなので、同じところをぐるぐる回っているような気がしてきました。そしてキオはとうとう走れなくなり、地べたに座り込みました。父とはぐれてしまい、彼は心細さでいっぱいでした。たくさん走ったための息苦しさが、彼の胸を余計に締め付けました。昼食時の涼しい風はぱたっと止まり、聞こえてくるのはぜいぜいという自分の激しい呼吸の音だけです。太陽はまだ高いところにありましたが、キオは古森にいたときのことを思い出しました。村人たちの墓が森の木々のように思われました。今にもあの墓と墓の間から野犬たちが飛びかかってくる様な気がしてなりません。父を呼ぼうにも声すら出ません。背後に何かの気配を感じました。じゃりっと土を踏みしめる音がします。こちらに近づいてきました。キオは振り返ることができませんでした。もし振り返り、そこに野犬がいたら、再びあの絶望を味わうことになるのです。足音はどんどん近づいてきます。ついにその音はキオの真後ろまでやってきて、ぴたりと止まりました。キオは目を見開き体を震わせながら、恐る恐る首を後ろへ向けました。それがすぐに犬だとわかり、キオはわあっと大きな叫び声を上げました。息子の悲鳴はゴルの耳にもかすかに届きました。彼はそこでようやくキオがついてきていないことに気がついたのです。ゴルは声のしたほうへ走り出しました。キオはお尻を地面にくっつけたまま後ずさりをしました。犬はこっちを見ています。犬は口を開け、舌を出し、よだれを垂らしています。この犬は自分を美味そうだと考えているに違いない、キオはそう思いました。犬の頭の後ろで何かがちらちらとしています。それは犬の尻尾でした。犬が尻尾を高く振っていたのです。きっと自分を食べることがとても嬉しいに違いない、キオはそう思いました。
「ぼ、僕なんか食べたって美味しくないぞ。あっちに行けよ。」
キオは手を振って追い払うしぐさを見せました。それを見た犬はキオに飛びかかりました。心臓が止まりそうでした。キオが身を硬くした途端、犬はキオに体当たりを食らわせました。キオはそのまま仰向けに倒れました。犬は彼の上にまたがりました。キオの頭の中は完全に混乱しました。彼は手足をばたつかせて犬をどかせようとしました。しかし犬はキオよりも大きかったのです。犬はキオの顔を舐めはじめました。尻尾はびゅんびゅん振られています。キオが落ち着くまでにいくばくかの時間がかかりました。犬はいつまでたっても彼に噛み付こうとはせず、ひたすら舐めるのみでした。ようやく違うと気づきました。
「ジャージャ、おやめ。」

それはしわがれた女性の声です。その声に反応した犬はキオを舐めるのをやめて、顔を後ろへ向けました。キオも犬と同じほうを見ました。キオと犬の視線の先には老婆が一人立っていました。髪は白くて長く、灰色の毛が何本か混じっています。顔はしわくちゃで右目を大きく開けていて、少し怒ったような表情をしています。

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第六章「野犬の長」【5】

一人ではとても寝付けそうにありません。キオの頭の中にあったのは、暗闇に浮かぶ野犬たちのギラギラとした眼です。もう少しで自分たちは野犬に食い殺されてしまうところだったと考えるたびに、彼は身震いしました。さらにはっきりと残っているのは、あの野犬の集団の中でひときわ大きかった一匹です。他の犬とは明らかに違う体格と、こちらの心を見透かしたような鋭い眼が、キオを再び毛布の中へと追い立てるのでした。

              

来年の収穫のための作業が一段落した頃、白森の村には安穏とした日が続いていました。そんな中、キオは父ゴルに連れられて外に出かけました。目的地は村の北にある白森の中央にそびえる“白森の丘”です。広大な森の中にぽつんと覗くそのはげ山には、村人たちの墓が並んでいます。死んだ者たちが白森の丘の上から村を見守ってくれていると大人たちは子供に話します。キオとゴルは日の出前、ようやく辺りがうっすらと白んできた頃に家を出ました。白森を縦断し、丘を登りきるにはとても時間がかかるのです。片道だけで大人の足でも朝に家を出てお昼前、子供が行くなら朝早くに出発してもお昼を過ぎてしまいます。ですから本当はもっと早くに家を出たかったゴルでしたが、暗いうちはキオが家を出ないと思って少々待ったのです。キオは眠い目をこすりながら、ゴルの後を付いていきました。白森の入り口に差し掛かった頃、空は徐々に明るくなり、ようやくキオの目も覚めてきました。
「キオ、今から白森に入るが…怖くないか?」
「大丈夫、怖くないよ。」

どうやら白森は平気なようでした。白森の村の南、あの騒動があった古森には、キオとルイル、パティンの三人はたとえ昼間であっても近づこうとしませんでした。それだけにゴルは、キオが白森に入ることも拒むのではないかと危惧していたのです。太陽が完全に姿を現し、白森の中にはたくさんの光が入ってきました。白森に生えている木々は白くありません。白いのは村の中にあるカリスの実が成る木だけです。カリスの実がなる木は白森の中にあったのです。この村が誕生したのは比較的新しく、数十年前のことでした。ここに移り住んできた人々はまず村の糧となる作物を探して森に入りました。その森がやがて白森と呼ばれるようになる場所でした。その森の中で人々はまばらに生えていたその木を見つけました。その木には程よく熟した実がなっていました。彼らの代表が一人その実を食べてみると、それは香りがよく、果汁も甘みも申し分ない物だったのです。彼らは白く輝く果実をカリスの実と名づけました。カリスの語源は、白くて甘いという意味の「カル・イス」という言葉がなまったものだといわれています。人々は森にあったカリスの実が成る木を全て今の白森の村の地に移しました。彼らはカリスの実を育て、収穫し、村を発展させていきました。白森の村があるのはカリスの実のおかげだといっても過言ではありません。村人はこの尊い白い木があった森を白森と名づけ、それがそのまま村の名前になったのです。ゴルとキオは丘を目指して森を歩き続けています。ゴルは時折振り返り、キオがついてこれているかどうか気を使いました。キオは父親とはぐれないよう、一所懸命に彼の後を追っています。ゴルの目には、そんな息子が健気でもあり、たくましくも映りました。その大切な息子が夜の闇の前には形無しとあっては、歯がゆくもあり、キオをかわいそうだとも思うのでした。彼らの道が少し上りになってきました。丘のふもとに差し掛かったようです。
「キオ、これからもっとしんどくなるが大丈夫か?」
「うん、こんなの平気だよ。」

ゴルは丘をゆっくりと登っていきました。キオは顔を真っ赤にして、額に汗をにじませながら丘を登っています。やがて木がまばらになり、ついにはまったく木のない所へと二人は出てきました。空を見ると太陽は一番高いところにいました。
「さあもうすぐ頂上だぞ。そしたら昼飯にしよう。」

キオは汗だくの顔をほころばせ、父親に向かって大きくうなづきました。

         

ゴルとキオはようやく頂上に辿り着きました。白森の丘の頂上は平地になっています。ここを墓地にするため、白森の住人たちが地ならしをしたのです。地面には草が茂っています。ゴルはそこに腰を下ろし、キオは身を投げ出して寝転がりました。気持ちのよい風が吹き、キオの火照った体を冷ましてくれました。二人はシアが用意してくれた弁当を食べ始めました。キオがまだ寝床にいるときに焼きあがった大きなパン、マセノア山羊の乳からできた真っ白なチーズ、それと隣村名産・マロピーの実です。キオはそれらをゴルに負けないくらいにたくさん食べました。ゴルはそんな息子の姿を見て、また喜びました。

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