第五章「嘆きの朝」【8】
娘にノドモスと呼ばれた老人は娘のほうへ馬の向きを変え、馬車のほうへゆっくりと近づいていきました。
「やあイオニーネ。」
「やあじゃないわよノドモス、一体ここで何をしているの?あなたはマレアやスロンゼルといっしょに行ったはずでしょ、どうして戻ってきたの?」
ノドモスは窓から顔を覗かせているイオニーネに、先ほどとは違う優しい声でこう言いました。
「イオニーネや、一人ぼっちにさせてすまなかった。私はここでお前さんといっしょにおるよ。」
「だめよ、ノドモス。殺されてしまうわ!」
「なあに、そんなに簡単に死にゃあせんよ。馬車の中でじっとしていなさい、イオニーネ。私はお前さんのことを本当の娘のように思って接しておった。ひょっとしたらこれで最後になるかもしれんが、今ひと時お前さんとの時間を過ごさせてもらうよ。」
イオニーネは、石のように硬くなっていた自分の心が解きほぐされ、体が温かくなるのを感じました。イオニーネは窓から右手を差し出し、ノドモスの顔に触れました。
「ありがとう、ノドモス。もう十分よ。お願いだからあなたは逃げて。私もノドモスが大好きなの。だからこんなところで死なないで。」
ノドモスは静かな笑みをたたえ、馬車から離れました。騎馬隊のほうから一騎近づいてきます。遠くからでもその者がただならぬ風格を身にまとっていることがわかりました。
「家族のために戦えるとは、至上の喜びなり。」
ノドモスはぽつりとつぶやきました。
フィレント・パッツェオは体の変調に苦しんでいました。元々遊牧民たちの姿を見たときから、彼は自らの異変を感じ取っていたのです。まず、頭痛と吐き気に襲われました。そして体の底から沸きあがるような憎悪の感情に彼の体は縛り付けられました。その意識は遊牧民たちがいるほうの奥へ奥へと飛んで行きそうでした。体が言うことをきかず、とても戦っていられる状況ではありません。しかし、彼の剣だけはなぜか前を向いていました。まるで彼の剣には目標がはっきりとわかっているようでした。フィレント自身は後退しようとしているのに、大剣エゾンモールはフィレントを戦わせようとしていました。
「無理だ、僕にはできない。」
エゾンモールの支配から逃れようとして、フィレントは必死にもがきました。
「助けて、助けて…」
体と心がいよいよばらばらになり、フィレントは目の前が暗くなっていくような感覚にとらわれました。
トーレン・シュトエラーゼスは慎重に、しかし着実に一人ずつ敵の息の根を止めていました。元々実戦よりも作戦参謀として手腕を発揮していたトーレンは、今回のように大勢の敵に囲まれての戦いは初めてでした。それでも剣術の腕はヤスブやマスグにも引けをとらず、冷静に戦いを進めていました。ふと周囲に目をやると、そこにはアクベイがいました。彼は誰かを探しているようでした。
「どうした、アクベイ?!」
アクベイはトーレンの声に気づき、彼に近づいていきました。
「トーレン様、騎馬隊の姿が見当たりません。まさかとは思いますが、ノドモスたちのほうへ向かっているのかもしれません。」
「そうか、よく知らせてくれた。では私は一度馬車のところへ行ってみる。」
「お一人では危険かと存じますが。」
「いや、無茶はせんよ。お前はここで持ちこたえてくれ。できるな?」
「もちろんです、トーレン様。弓矢ほどではありませんが、剣術の訓練も積んでおります。」
「うむ、死ぬなよ。」
トーレンは馬車があるほうへ向かって走り出しました。その時、彼の馬に並びかけてくる者がいました。レゴノートン・ノートニアスです。
「トーレン様、どちらへ?!」
「馬車の様子を見てくる。お前は持ち場へ戻れ。」
馬車、と聞いてレゴの顔色が変わりました。
「何かあったのでございますか?」
「心配するな、スロンゼルたちが無事に出発できたかどうか確認してくるだけだ。」
「私もお供いたします。」
「ならん!お前は自分の役割を全うせよ。一人でも多くの敵を切るのだ。さあ戻れ!」
レゴは渋々馬を止めました。トーレンの馬は一目散に駆けていきました。
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