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第三章「ユレイスの憂鬱」【18】

「はじめは死んでいるのかと思ったよ。ぴくりとも動かんかったからなあ。ところが息をしてるんで急いで家の中に運び込んだんだよ。それからがまた大変だったんだ。あんたはすごい熱だったんだ。夜が明ける前だったが、すぐにお医者様をたたき起こして診てもらったんだ。だけど先生にも原因がよくわからなくて途方に暮れてしまっていたよ。とにかくこれ以上熱が上がらないように必死で看病したんだ。」
ユレイスは自分の喉に手を当ててみました。ここから毒が入ったはずです。町医者の知らない毒だったのかもしれません。
「私はどのくらい眠っていたのですか?」
「昨日は丸一日眠っていたよ。今日も、もう昼を過ぎてる。」
「そんなに…。」
ユレイスの腹が大きく鳴りました。彼は空腹でした。彼は自分が生きていることを実感しました。彼女はユレイスのために食事を用意してくれました。食事が終わると、彼女が洗っておいてくれた服を着ました。この清々しさは、生きているというよりも、生き返ったような気持ちでした。彼は二人に感謝と別れを告げ、ドウィにまたがり出発しました。町を出た時、そこには例の騎馬隊が待機していました。数も相変わらず二十騎です。ユレイスは何食わぬ顔で彼らのそばを通り過ぎました。彼らはユレイスを見ても特に気にとめていないようでした。ユレイスはしばらく走ってみましたが、誰かに尾行されている様子もありませんでした。ゲジョルは本当にヌイレドに何も告げずに去って行ってしまったのでしょうか。ひょっとしたら、彼を運んでくれたのはゲジョルかもしれないと、彼は考えていました。

              

ユレイスはリグ・ラーンを横目に走り抜け、リグ・リヤバルを目指しました。太陽は稜線に半分隠れています。リグ・リヤバルが近づくにつれ、彼の頭の中にはフランネの姿がちらつくようになっていました。彼の花は彼女の香水の匂いを覚えていました。彼の目には、ドレスを体にぴったりと張り付かせた彼女の姿が焼きついていました。彼の耳には、酒でつぶれた彼女の声が響いていました。彼の心臓は息苦しくなるほどに締め付けられています。ユレイスは彼女に一目会いたいと思っていました。生死を賭けてゲジョルと戦った後だというのに、一刻も早くヤスブの元へ戻らなければならないというのに、彼の心は彼女を求めていました。いえ、緊迫した場面に圧迫されていたからこそ、余計にフランネを恋しく思ったのかもしれません。太陽はすっかり山の中に沈んでいきました。大地からはほとんどの光が消えうせました。かわりに月が姿を現しました。夜空には雲もなく、星が瞬いています。今夜の雨は無さそうです。彼の体の中で、心の葛藤は既に終わっていました。ユレイスはリグ・リヤバルの中に入っていました。以前と同じようにドウィを厩につなぎました。これは決して寄り道ではなく、ドウィを休ませるためなのだと、ユレイスは自分に言い聞かせています。夜になってからかなりの時間が経っていました。”フランネの店”はもう閉まっているかもしれません。焦りに追われて、彼の足は自然と速くなっていきました。

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第三章「ユレイスの憂鬱」【17】

「さあて、どうだったかねぇ…でも、五百人だって?本当かねぇ…それは穏やかじゃないなぁ。もしそいつらが狙っているのがあんた達なら、あの赤毛の娘を取られちまうよ。フェリノア軍は強いから、気をつけたほうがいいねぇ…。そろそろいいかなぁ。私は行くよ。」
その時なぜかユレイスは自分の体が徐々にしびれてきているように感じました。枝につかまらなければそのまま地面に落ちてしまいそうでした。視界が狭まって目の前が暗くなってきました。
「まだ話は終わってない」
と言おうとしましたが、声を発することさえできません。
「おや、大丈夫かい?何が起こったかわからないようだなぁ…最初に私のナイフがあんたの喉元をかすったよねぇ。私のナイフには毒が塗ってあるんだよぉ…ひゃひゃはぁ…毒が回ってきたようだねぇ。でも心配ないよ、そりゃあ猛毒だけど、死ぬほどの量はあんたの体の中には入り込んではいないはずだからねぇ。動かないほうがいいよ、いや、もう動けないかねぇ、くふふふぅ…。」
その言葉を最後に、ゲジョルの声はすっかり聞こえなくなりました。ユレイスはかろうじて意識を保っていました。彼の目の前はほとんど真っ暗です。手足に感覚はありませんが、枝の上でうつぶせになり、両手両足ともに枝からだらりと垂れ下がっているようです。ゲジョルはああ言っていたが、本当はこのまま死んでしまうのではないかと彼は思いました。しかし彼にはどうしようもありません。彼の意識は深く深く落ちていきました。しかし闇のそこへ沈んでゆく直前、彼はゲジョルの言葉を聞いたように思いました。
「あきらめちゃいけないねぇ…。」

              

彼を呼び戻したのは太陽の光でした。目を覚ましたユレイスは、自分がベッドの上にいることがわかりました。上体を起こしてみると、だるさが残っていますが、毒が抜けたのか体は自由に動かせるようでした。彼は小さな家の中にいました。自分が寝ているベッドの隣にはもう一つベッドがあります。玄関の扉の横には台所があり、そこでは中年らしき女性が炊事をしています。ユレイスの視線に気づいたのか、女性が振り返りました。女性の顔は中年というよりも初老といった感じでした。彼女はユレイスを見て驚いた表情をし、やがてにっこりと微笑みました。
「あらあ、よかった!起きたのね。ちょっと待ってて、今主人を呼んでくるから。」
女性は小走りで玄関から外へ出て行きました。やがて彼女といっしょに男性が一人、中へ入ってきました。
「おお、あんた大丈夫か?昨日は死にそうだったんだぞ!」
男性は嬉しそうにユレイスに近づいてきました。ユレイスは彼のことを覚えていました。ドウィを預けた農民だったのです。その男性によれば、ユレイスはドウィのすぐそばに倒れていたというのです。ドウィがけたたましく鳴くので、男性が外へ出てみると、そこに泥だらけになったユレイスを見つけたのでした。

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第三章「ユレイスの憂鬱」【16】

ユレイスは既にゲジョルの気配を感じ取れなくなっていました。ユレイスも自分の気配を絶ちました。ゲジョルはユレイスの気配が消えたことでますます喜びを露わにしました。
「面白いねぇ…嬉しいよぉ…。」
ゲジョルは声にならない声でつぶやきました。幹を挟んで二人が対峙しています。お互いに相手が左右どちらから出てくるかわかりません。ユレイスにとっては一か八かの賭けでした。幸運が向かなければ、ユレイスに勝ち目はないのです。ユレイスは幹を右手のほうへ跳ねました。ゲジョルはいません。ゲジョルもまた右へ飛んだのです。ユレイスはとっさに袋から火薬玉を取り出し、ゲジョルがいるであろう方向へ投げました。雨で湿っていたせいか、あまり大きく破裂はしませんでしたが、ひっという小さな悲鳴が聞こえました。ユレイスはすぐさま火薬玉が破裂したほうへ向き直り、そこへ飛びつきました。しかし、そこにゲジョルはいませんでした。ユレイスは全身に鳥肌が立つのを感じました。彼の背中にくっつかんばかりに、ゲジョルが彼の後ろにいたのです。一度ならず二度までも後ろを取られたことは、ユレイスにとって最大の屈辱でした。
「惜しかったねぇ、実に惜しかった。いや、運が悪かったのかなぁ…?火薬がもっと大きく弾けていれば、今と逆のほうへに回りこんでいれば…ひょっとしたら私に一太刀浴びせられたかもしれないのにねぇ…。」
もはやこれまでか、とユレイスは思いました。

                 

「でも、でもねぇ、あんたは私の部下より全然いいよ。まず、強い。動きも速い。それに一人で何でもできそうだし、言うことないよ。あんた、私の部下にならないかい?今の私にはあんたほど働ける部下がいないんだよ。あんたはきっとすばらしい仕事ができるよぉ…。………私は本気で言ってるんだよ、どうだい?」
「ゲジョル、お前はフェリノアの者なんだろう?」
「そうだよ…ひょっとしてあんた、フェリノアが嫌いなのかい?あんたはバドの人間だから仕方ないかもしれないけどねぇ…リドルバ王はいいお方だよ、あんたも会えばわかるさ。野心家でないってところが私にはつまらないけどねぇ。フェリノアがいやならそれでも構わないさ、私の部下になってくれさえすればそれでいいんだよ。今よりもっと強くなる方法だって教えてあげるよ…。」
「私は祖国の民を救うために旅に出たのだ。貧しさに切羽詰ったバドを見捨てることなどできない。ゲジョルよ、よく聞け、私がお仕えするのはわが国王エイ・デオ様だ、決してリドルバではない!」
ユレイスはいよいよ死を覚悟しました。
「いけないねぇ…。」
ゲジョルの呟きが聞こえたその時、ユレイスの背中にかかっていた重圧がふっと軽くなりました。ゲジョルが彼から離れたのです。ユレイスはそっと振り向きました。そこにゲジョルの姿はありませんでした。
「強くなるために一つ教えてあげるよ、簡単にあきらめちゃいけないねぇ…。今日はこれで帰るけど、私はあんたを部下にすることをあきらめないよ。」
ゲジョルがどこから話しているのかユレイスにはわかりません。
「帰る?どういうことだ!」
「何もないよ、帰るのさ…馬鹿なヌイレドにはもう愛想が尽きたんでねぇ。きっとあいつはあんた達を待ちぼうけて過ごすんだろうさ、この田舎で何日もね。何も知らずに…幸せな男だよ。」
ゲジョルは吐き捨てるように言いました。
「待ってくれ!五百人の遊牧民がダルオから南下していると聞いたが、それはフェリノア軍なのか?」

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第三章「ユレイスの憂鬱」【15】

日が沈み、夜になりました。やがて雨が霧のように降り出し、音もなくユレイスを包んでいます。昨日のようにはならないことを彼は願いましたが、それは空しい祈りでした。雨粒はどんどん大きくなり、昨日よりも大きな音を立て始めました。ユレイスは恨めしそうに空を見上げています。耳をつんざく雨音のため、彼はゲジョルが迫っていることに気づいていませんでした。ユレイスの耳が刃物の雨を切り裂く音をかすかにとらえました。ユレイスは反射的に体をのけぞらせました。彼の視界に人の姿が入りました。ゲジョルは彼のすぐ後ろにいたのです。ゲジョルは小型のナイフを水平に振り切った体勢でユレイスをにらみつけていました。ユレイスは喉にちくっとした痛みを感じました。彼はすばやく枝を伝って後ずさりしてゲジョルと距離をとりました。彼の心臓は驚きと恐怖で急激に鼓動を速めていました。雨音に気配を消されていたとはいえ、自分のすぐ後ろを取った男に対して、ユレイスは彼の実力を計りかねていました。ユレイスを前にしたゲジョルもまた驚いていました。自分の一撃をかわされるとは夢にも思っていなかったのです。ユレイスはゲジョルが口を歪めたことに気がつきました。それは笑っているようでもあり、それがユレイスにはとても不気味に思えました。
「ひひぃ…びっくりしたねぇ…あんた、なかなかやるじゃないか…ふふふ、やっぱりあんた達はただ者じゃなかったんだ…。」
「お前がゲジョルか?」
「そうだよ、私がゲジョルだよ…あんたの後を追わせて部下をひとり走らせたんだが、…この様子じゃアレも生きちゃいまい…ひひひぃ、あんた達、私が連れてきた部下を全部殺しちまったねぇ。」
ゲジョルはさらに口を引きつらせ、目を大きく見開いて笑っていました。
「うふ、うふふふ…ここに騎馬隊を集めようってアイデアはよかったんだけどねぇ、相手があのヌイレドじゃあ…あの太っちょは、へへへぇ…馬鹿なんだよぉ。どこにだって馬鹿はいるもんだが、あんな馬鹿にはめったにお目にかかれないねぇ。あんなのを使ってるようじゃリグ・バーグもたかが知れてるね。それとも今度の話、奴らは大して本気じゃないのかもしれんなぁ。大体この国は平和ボケしすぎてるんだよ。戦争があったことなんて忘れちまってるんじゃないのかねぇ…。」
ユレイスは微動だにしませんでした。ゲジョルは独り言のようにぶつぶつとしゃべっていましたが、ユレイスから目をそらしてはいません。ゲジョルには隙がありませんでした。ユレイスはこの男に勝てるかどうかわかりませんでした。それどころか、逃げることさえかなわないように思えました。
「あんた…抜きなよ…。」

                 

ユレイスの心を見透かしたようにゲジョルが声をかけました。
「あんたの腕を確かめてみたいんだよぉ。お手合わせしようじゃないか?待っててやるから、ほら、抜きなよ…。」
ゲジョルは楽しそうでした。ユレイスは短刀を抜きました。武器を手にすると、弱気になっていた彼の心に力がみなぎってきました。
「いいだろう。ゲジョルよ、私がお前に勝てるかどうかわからないが、ここで死ぬわけにもいかない。私を待っててくれる人もいるのでね。」
ユレイスは右手で短刀を持ち、左手は腰にぶら下げている小さい袋を握りしめていました。袋の中にはマレアが貸してくれた、彼女のお守りが入っているのです。神よりも彼女に祈ろう、ユレイスはそう思いました。
「心を奮い立たせたね。いいよぉ、そういうのも大事なんだよね…くくっ。」
ユレイスは左に動き、自分とゲジョルの間に幹を挟みました。ユレイスの前からゲジョルが見えなくなり、ゲジョルの視界からもユレイスの姿が消えました。

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