第十章「秘め事」【13】

ドクが亡くなったことでどれだけ家族が傷ついたのか、キオにもようやくわかってきました。こんな話を聞いた後では長の名前の事を言い出しづらくなってしまいました。もし長にドクという名前が付いたら、皆は長を見るたびに辛い記憶を思い出す事になるのです。黙ってしまったキオの肩をルドはしっかりと抱いてやりました。ゴルと同じように温かい手でした。
「何でもいいから言ってみろよ。ちゃんと最後まで聞いてやるから。」
自分がわがままなことを考えていたと思い、キオは喉が詰まりました。やがてキオは途切れ途切れに長の名前の事についてルドに話しました。長に与える名前はドクしかないと思っていたのに、それは思った以上に重く深い話しでした。でもルドはキオの話を最後まで何もいわずに聞いてあげました。震えている弟の体をさらに強く抱き寄せました。
「…ごめんなさい。僕、何もわかってなくて…もうわがまま言わないよ。」
「確かにお前は最近こいつのことばかり考えていた。でも今は家族のこともちゃんと考えてるよな。俺は反対はしないけど、賛成もできないよ。もう一度自分でよく考えてみるんだ。」
それから、ルドは鼻をすするキオのそばにいつまでもいてやりました。その夜、キオは毛布を持って納屋へやってきました。そしてぐったりと横たわる長のそばに寝転がりました。もう長に生きる気力を与える方法が思い浮かびません。キオは長の首筋をそっと撫でてやりました。長は目を閉じたままです。このまま長が力尽きるのを待つしかないのかと思うと、キオは苦しくて眠れませんでした。

    

物見の塔を降りてきた二人は、馬に乗って城から出ました。塔の窓からはタルティアスが見ています。ゲジョルは馬に揺られながらそれとなく辺りをうかがっています。ゲジョルがちっ、ちっ、ちっ、と三回舌を鳴らすと、ボウカは少し後ろに下がりました。すると彼と入れ替わるようにどこから現れたのか、馬に乗った男がすっとゲジョルの横に付きました。その男はゲジョルの右側にいながらゲジョルを見ようとはせず、真っ直ぐ前を向いています。ゲジョルもまた彼のことを見ることなく馬を歩かせています。彼らは小声でこんなやり取りをしていました。
「ぎぃ…ずいぶんと遅くなったもんだねぇ…城に入る前に合流できると思ったんだけどねぇ…」
「申し訳ございません。」
「ぢぇ…で、当然何かわかったんだろうねぇ…びぃ…」
「場所はパラーラの森です。」
「ぜふぉ…どこに消えたのかと思ったら、そんな所にねぇ…おげげぇ…で、数は?」
「確認したところ、多くとも五千。」
「数が合わないねぇ…じゃざぁ…あのお坊ちゃんはいったいどこへ兵隊さんを隠しちまったんだろうねぇ…べふぅ…」

ゲジョルの隣にいる男は名をヌッパといって、最高機密隊の十六班に所属しています。つまりは彼もゲジョルの部下なのです。彼はフェリノア第五王子の直属軍の動向を探っていました。直属軍はフェリノアの四人の王子がそれぞれ抱えている軍隊です。王子は直属軍を自分の好きな時に動かすことができるのです。兵士の数はカドゥーバが五万、セモネアンは三万、オセアスは二万、そしてタルティアスは一万五千です。マレアを手中に収めるべく出征した五百の兵士は、このオセアスの直属軍から出ています。今から百日以上前、タルティアスの直属軍一万五千が忽然と姿を消しました。その話を聞いたゲジョルはすぐヌッパに命じて、複数の部下と共にタルティアス軍の行方を捜索させたのです。
「ヌッパ…あんたその脚のケガ…誰にやられたんだい?…ばぶ…」

ヌッパはゲジョルの方からは見えない右足の負傷を言い当てられて、うろたえました。
「面目ございません。パラーラにヨグドーが来ておりまして…奴に見つかってしまったのです。こちらの正体まではばれておりませんが、逃げる際に一人斬られました。」
「せいぜい気をつけるんだよぉ…全滅させられては元も子もないんだからねぇ…」
「御意。」

そして二人はしばらく並んで前に進みました。後ろではボウカが周りを警戒しています。
「ゲジョル様、実は少し気になることがございまして…」
「ぴゃあ…いいよぉ…言ってごらんよぉ…」
「パラーラで伐採された膨大な量の木の行き先についてでございます。」

ゲジョルは思わず目玉をぐりっとヌッパのほうへ向けました。
「○×■▽☆…」
ヌッパが聞きなれない言葉を使いました。それはフェリノアでも周辺の十一カ国でも使われていない言葉でした。ゲジョルは視線を正面に戻しました。そして考えを巡らせました。
「じぎゅ…そこだけかい…全部ぅ?!」
「間違いなく。しかし理由まではまだ掴めておりません。」
「ふふん…へぇ…何があるって言うんだろうねぇ…」

やがて道が二股に別れた所までやって来ました。
「…お前さんは…ざぁ…パラーラと木材の監視を続けておくれよ…人を増やしてもかまわないからさぁ…でも無茶する必要はないからねぇ…遠巻きに眺めていりゃあいいよぉ…しゃあ…」
「ゲジョル様は?」

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第十章「秘め事」【12】

「けぇぇ…きっとあの男だねぇ…さすがだよぉ…しゃしゃあ…」
ゲジョルはいつもこうでした。褒める相手に敵も味方もありません。だからボウカは彼の言葉を聞き流して話を続けました。
「“大いなる先輩”、ワシュウ様は赤毛の娘を騎兵隊に預けて西から本国へ向かわせました。」
「西からか…どこを通るかな。アルオープか、それともマスリースか。」

タルティアスがわくわくしているように目を輝かせていました。
「ワシュウ様が戦場へ戻ったと同じ頃、リグ・バーグの大軍が現れ、戦いを鎮めました。ワシュウ様は騒動を起こした罪で捕らえられてしまいました。オセアス王子は素性こそばれませんでしたが、馬に乗ることを許されず、歩いて本国に帰らされているのです。詳細はラゾイからお聞きくださいませ。我々が集めた情報はここまでです。」
「かの大元帥を捕らえるとは、リグ・バーグもずいぶんと大胆になったものだな。ええ、ゲジョルよ?」

ゲジョルはちっ、ちっ、と舌打ちをしました。
「ボウカ…これを私に持ってきたということはぁ…何かしろってことだねぇ…はっきり言いなよぉ…」
ばっと床に顔を付けんばかりにひれ伏し、ボウカはこう言いました。
「実はワシュウ様は戦いのさ中に深い傷を負っております。自力で帰るのは無理かもしれません。どうかゲジョル様にワシュウ様のお迎えを願えないかとのラゾイからの伝言でございます。」

ボウカの顔の目の前でゲジョルは脚を踏みつけました。
「ぴっしゃあ…私は便利屋じゃないんだけどねぇ…きぇ…どうしたものかねぇ…」
「ゲジョル、私からも頼むよ。他の者には頼めない。私との話はここまでにして、ワシュウ殿を迎えに行ってやってくれ。できれば、今すぐに。」
「仕方がありませぬぅ…ごはぁ…行くぞ、ボウカ…ぴぴゅ…」

ゲジョルとボウカは塔を降りていきました。一人残ったタルティアスは興奮を抑えきれないようでした。彼はすぐに手紙をしたためました。宛名は七班のヨグドーになっています。彼は自分で書いた手紙を読み返しては笑っています。自分の理想が現実に一歩近づいたことが嬉しくてたまらなかったのです。

    

キオはゴルの姿を求めて農園へ向かいました。マシュル家の農園には幹の太い立派なカリスの実の成る木がずらっと並んでいます。ゴルはこれらの木々を手塩にかけて育ててきました。もうしばらくするとこの木々に若い葉が生えてきます。葉が生い茂ると花が咲き、農園に働く者たちは受粉作業に取りかかります。花のおしべの花粉をめしべにつけて実ができるように促すのです。実が育つと収穫されます。カリスの実はマセノアの各地へ出荷されていきます。白森の村の人々はこれらの作業を毎年繰り返して生活しています。今はまだ木の具合を確かめるだけで何もする事はありません。ゴルは雑草を抜きながら農園の中を回っていました。そこへ彼を探してキオがやってきました。息を切らしているキオに何かあったのかとゴルは尋ねました。呼吸を整えたキオは、長に亡くなった兄・ドクの名を付けたいと話しました。でもゴルは反対しました。
「ドクのことを思い出して辛くなるだけだ。特に母さんがな。」
「僕もドクお兄ちゃんには生きていてほしかった。パティンが言ってた、“キオは兄弟がいるからいいな”って。僕もそう思う。家族ってたくさんいたほうがいいもんね。お父さん、長を家族にしてあげてよ。家族になった長のことを皆が生きていてほしいと願えば、長にもそれが伝わるよ。そしたら長も生きようとするかもしれないから。」

ゴルはキオに背を向け、雑草を抜きながらぽつりと言いました。
「もし長にドクと名づけても、長が生きる気力を持たなかったらどうする?俺たちはまたドクを失う事になるんだぞ。」

父の言葉は厳しくて悲しげでした。キオは何も言えなくなり、長のいる納屋へとぼとぼと歩きました。納屋では珍しい事にルドが長に水をあげていました。
「ミアがこいつに水をやるのをほっぽって遊びに行っちゃったんだよ。」

キオに元気が無いことがルドにもわかりました。ルドはキオより八つ上の十八歳です。すでに大人の年齢に達している彼は今、自立への道を模索していました。キオにとって兄弟の仲で遊び相手は姉のミアですが、困った時に助けてくれるのはルドなのです。ルドにとっても、この迷惑ばかりかける弟が心配で仕方ありませんでした。
「どうしたんだ、またお父さんに叱られたのか?」

キオはどきっとしました。叱られたわけではありませんが、父の言葉に塞ぎこんでしまっていたことは事実です。
「ルドお兄ちゃんはドクお兄ちゃんの事をいつ聞いたの?」
ルドはキオの顔をじっと見て、視線を落として目を閉じました。
「…あいつが死んだ次の日に聞いたよ。産婆さんが慌てて家に来てたから何となくわかってたんだけど。ミアはまだ赤ん坊だったけど、俺はもう六歳だったから。弟に会えないって聞いた時はすごく悲しかった。父さんと母さんと俺は家の中でずっと泣いてた。ミアがドクの事を聞いたのは確か十一歳になってからだったな。お前の時と同じように白森の丘に連れてかれてさ。あいつ、泣きながら帰ってきたよ。」

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第十章「秘め事」【11】

タルティアスにはゲジョルの考えはひしひしと伝わってきました。
「嘘は言っていないぞ。欲しいと思わないんだ、フェリノアなんてね。」

ゲジョルはどきっとしました。自分の体の中にタルティアスの考えていることが流れてきたのを感じました。
「フェリノアはもう年寄りなんだよ。強大で栄光に満ち溢れていたのは過去の話さ。兄さんたちのようにいつまでもこんな国にしがみついてなんかいられない。私はバドが欲しい。必ず手に入れるよ。バドを拠点にして外の世界を目指すよ。これが私の夢さ。」

    

「ばぁぐぅわぁ…赤毛の娘はバドに取り入るための餌、というわけですなぁ…しぃやぁぁぁぁ…」
けたたましい声をあげてゲジョルが笑っています。
「もちろんそれだけで何とかなるとは思わんが、きっかけくらいにはなるだろう。少なくとも民には受けるよ。」
タルティアスは口を曲げて笑いました。
「きぃ…果たしてあの向こうに何があるのやらぁ…べしぃ…」
“あの向こう”とは、フェリノアと周辺の十一カ国を囲む山脈の向こうを指しています。フェリノア王国は北方を海岸線で囲まれ、陸地の国境は全て十七年戦争で雌雄を決した十一カ国うちの八カ国に隣接しています。フェリノアは戦争で他国を滅ぼして領土を広げてきました。周辺の十一カ国とは同盟を結んでいるとはいうものの、決して良好な関係ではありません。そのようなきな臭い祖国をタルティアスは捨て、巨大な山脈の向こうにある世界を目指すというのです。
「私には希望が見える。ゲジョル、この話を聞いたからにはお前のとるべき道は二つだ。私に協力するか…」
再びこの部屋の気温が下がってきたような錯覚にとらわれました。ゲジョルが口を開いた時、扉を叩く音が聞こえました。
「誰だ?!」
「ゲジョル様宛に最高機密隊・第十六班の方がいらしております。オセアス王子からの親書を持ってこられたということです。」
扉の向こうから聞こえた言葉に気色ばんだのはタルティアスでした。
「オセアス兄さんから?!」
「…入っていいよぉ…」
扉が開くと、そこにはこの城の兵隊が一人と、ゲジョルと同じような服装をした男が立っていました。
「ボウカ…リグ・バーグから戻ったのかい…げぇ…」

ボウカと呼ばれた男が部屋の中に入り、兵隊は扉を閉めて塔を降りていきました。ボウカは懐から一通の手紙を取り出し、ゲジョルに手渡しました。
「びじぇ…これはオセアス様の署名だねぇ…タルティアス様ぁ…お読みになりますかぁ?」
ゲジョルは手紙をタルティアスに差し出しました。しかしタルティアスは首を振りました。
「無粋な真似をするつもりは無いよ。お前が読みなさい。」

にっと笑ってゲジョルは手紙の封を開け、文面に目を通しました。
「べずぅ…手紙には三つの文があるだけですよぉ…まず“望む物は手の中にあり”」

タルティアスの顔がぴくっと動きました。
「次に“大鳥は羽根に傷を負い、地べたを這うなり”最後は“大いなる先輩はかごの中”とありますよぉ…げげ。」
「赤毛の娘を捕らえたのか?!」

手紙を読み終えるのを待ち構えていたタルティアスの顔はこれまでになく気色ばんでいます。
「どうやら…そのようで…しべ…」
「そうか、ついに!」

興奮する王子を尻目に、ゲジョルは手紙の文面をまじまじと見つめていました。
「しぃ…ラゾイの字に間違いないが…やけに焦っているみたいだねぇ…ボウカ?」

顔を床に向けたまま、ボウカは答えました。
「現在、オセアス王子率いる部隊はリグ・バーグ軍の監視の下、フェリノアにむけて帰国の途にあります。」
「“大鳥”ってえのがオセアス王子のことだね?ケガをしているって…どこぉ…そいつらに?」
ボウカは首を振ります。
「いえ、それはバドの短刀使いに脚を切られた模様で。」

ゲジョルの脇をすり抜け、タルティアスはボウカに詰め寄りました。
「オセアス兄さんがケガを?!ワシュウ殿やラゾイはいったい何をしていたんだ?!」

ボウカはさらに頭を下に向け、タルティアスと目を合わせません。
「ワシュウ様は赤毛の娘の捕獲のため、本隊を離れておいででした。その間、ラゾイが御そばにてオセアス王子をお守りしていたのですが、何しろその者が恐ろしいほどの手練で…軍に同行していたわが部隊の者も、ラゾイを残してその短刀使いに皆切り捨てられてしまいました。」

何かを思い出し、ゲジョルは愉快そうに苦しそうに笑いました。彼の頭の中にはリグ・システィンで出会った、バドの若い諜報員の姿が浮かんでいました。

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第十章「秘め事」【10】

キオは頭の中のもやもやを払うように頭を振り、そしてこう言いました。
「一つだけあるんだ…」

ルイルがパティンの口を押さえてぴたっと静かになりました。
「本当は始めから頭に浮かんでたんだけど、そのたびにだめだって思ってて…でもやっぱりそれしか思いつかなくて…」
「教えてよ、キオ。」

パティンがルイルの手をどけてキオに尋ねました。
「僕の…おにいちゃんの名前。」
「えっ?!ルドか?!」
「もう一人のお兄ちゃんの名前なんだ。“ドク”っていうんだ。」

ルイルとパティンは顔を見合わせ、パティンは知らないというように首を振りました。
「本当なら僕たちは四人兄弟だったんだ。」

そしてキオは語り始めました。彼が生まれる前に亡くなった兄・ドクのことを二人に話しました。キオがこの話を父から聞いたのは昨年の暮れのことですから、二人は当然知りませんでした。
「決して長のことをお兄ちゃんだって思ってるわけじゃないんだけど。きっとお兄ちゃんは生きたかったと思うんだ。生まれてきてカリスの実を食べたり、友達と遊んだり、学校で勉強したり、いろいろな事をたくさんしたかったと思うんだ。でも、それはできなかった。今もし、パティンの言うとおりに長が生きようという気持ちを少しでも持っているなら、僕は長をドクって呼びたい。ドクという名の犬として生きてほしい。」

それから三人は黙って歩きました。三人はそれぞれ思いを巡らせていましたが、考えているのは生まれることができなかったドクのこと、生きることと死ぬことのどちらかをさ迷い歩いている長のこと、そして何不自由なく生きている自分たちのことでした。三人は別れ際、向き合ってお互いの意思を確かめ合いました。
「俺はドクって名前に賛成だぜ。長にはぴったりだと思う。」
「僕も。キオのお父さんとお母さんが賛成してくれるといいね。」
「うん。今から話してみる。反対されるかもしれないけど、今はドクって名前しか考えられないから。」
「決まったら教えてね。」
「それから、水をやるのを忘れるなよ、ドクに。」
「ルイル、気が早いよ。」

三人は笑って別れました。キオはゆっくりと歩いて自分の家へ向かいました。父や母にどうやって話そうかと考えながら。

    

「まず、お前なら知っているだろうが…父がやろうとしている僕たちへの領土の分与についてのことだ。」
「“フェリノアの大分割”…ですなぁ…しゅう…」

タルティアスの父はリドルバ・フェリノ、フェリノアの王です。彼にはカドゥーバ、セモネアン、ツヴァン、オセアス、タルティアスという五人の息子がいます。そのうち三男のツヴァンはすでにこの世の人ではありません。リドルバは広大なフェリノアの国土を四つに分割し、四つの国を造って四人の王子に分け与えようとしていました。リドルバはフェリノア王国の歴史に幕を下ろそうと考えていました。これがリドルバ王が長年にわたって取り組んでいる“フェリノアの大分割”なのです。しかしこの大事業がそう簡単に成し遂げられるはずもなく、国内の議会は賛成派と反対派で真っ二つに分かれていました。賛成派の人間は何とかして多数決を得るために、反対派の人間を寝返らせようとして根回しをしています。ところが、反対派のほうも同じように動くのでお互いの数はさほど変わらず、結局はいたちごっこに終わってしまいます。そもそも意見が分かれて決まらないというのは、国王の権威が落ちている証だという話も出ています。何しろ反対派を率いているのは第一王子のカドゥーバなのですから。カドゥーバにとってこの話はまったく面白くありません。王位継承権第一位の自分が、本当ならフェリノアの全国土を手に入れることができるはずだったのに、弟たちにも分け与えなくてはならなくなったのです。しかも四人で均等になど、到底受け入れられる事ではありませんでした。セモネアンとオセアスは賛成派を率いて、領土が小さくなっても国王になることを望みました。末っ子のタルティアスはどちらにも付かずに、このドロドロとした争いを静観していました。
「父君の考えはわかるよ。私たち四人に分けへだてなく領土を与えてやろうという親心だろう。しかし結局そのことが原因で兄弟が争う事になってしまっているとは何とも皮肉な話だ。」

タルティアスは神妙な面持ちです。ゲジョルは彼を注意深く観察していました。
「もしも、この争いで反対派が勝ってフェリノアの国土を全てカドゥーバ兄さんが受け継ぐようなら、私は黙って認めよう。しかしもし父君の考えどおりに国を分けるというのなら、私は自分の領土をカドゥーバ兄さんに譲ろうと思っているんだ。そうすればカドゥーバ兄さんも少しは納得してくれるだろう。」

何と殊勝な話しでしょう。しかしゲジョルはそれをそのまま鵜呑みにするつもりはありませんでした。フェリノアの歴代の王が持つ、領土を広げることへの欲望を最も色濃く受け継いでいるのは、誰あろうこの男だとゲジョルは常々考えていたからです。

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第十章「秘め事」【9】

「フェリノアの王子様が赤毛の娘を手に入れて一体何をするおつもりなのかぁーーー?!!」
タルティアスは剣を抜きました。ひゅっと降られた切っ先がゲジョルを斬り裂いたように見えました。ところがゲジョルは半歩後ろに下がっただけで、まるで何事も無かったかのようにその場に立っています。ゲジョルを斬れなかった、タルティアスは驚き、そして笑いました。
「俺ではまだゲジョルの足元にも及ばんということか。」
ゲジョルも肩を揺らして笑っています。
「ひぇ…滅相もない…私なんぞにむきになる必要はないですぞぉ…しべ…私はタルティアス様の頭の中をほんの一部でも覗き見してみたい…だけぇ…ぎゅぐ…」
「そんなに知りたいのか?」
「びぇ…」
「これは今の私の全てをかけた夢だよ。これを聞くからにはお前にもそれ相当の覚悟をしてもらう必要があるが、どうだ?」
「元より…十六班もタルティアス様のために尽力いたしましょうやぁ…びっびっ…」
大きく頷いて、タルティアスはこう言いました。
「では聞くがよい。わが比類なき壮大な夢を。」

    

パティンが村へ下りてきた時、もう学校は昼食の時間になっていました。パティンは慌てて学校へ入り、こっそりとキオやルイルのいる教室にやってきました。彼の姿を見たとき、キオやルイルだけでなく教室にいる誰もが驚きました。注目を浴びているパティンはばつの悪そうな顔をしています。先生は彼を問い詰めました。どうして無断で学校に遅刻したのか、そのことをパティンに尋ねたのです。
「とても大事な用事です。」
そう言うだけでパティンは詳細を語ろうとはしませんでした。教室の皆が見守る中、パティンは廊下に立たされました。ルイルやキオならともかく、パティンにとって廊下に立たされるというのは初めての経験です。キオとルイルはとても心配でした。一体何があったのだろうと思いました。しばらく立たされた後、パティンはようやく教室に入ることを許されました。彼が席に座ると、前の席のルイルと右隣のキオが顔を近づけてきました。
「おい、今までどこに行ってたんだよ?!」
「大事な用って何?!」
「ルイル、キオ、静かにしなさい!」
二人は先生に怒鳴られて前を向きました。キオは横目でパティンをちらっと見ました。パティンは教科書を開いて勉強を始めています。結局学校にいる間、パティンは大事な用事について何も言いませんでした。
 その帰り道、キオとルイルが並んで歩き、パティンはその後ろからとぼとぼと歩いていました。前の二人は顔を見合わせています。
「何であいつは何も言わないんだ?そんなに大事な用事って何なんだよ?」
「さぁ…」
二人は揃って首を傾げました。
「キオ!」
突然パティンに呼び止められて驚きました。キオとルイルは振り返ってパティンを見ました。何だかパティンはとても真面目な顔をしています。
「どうしたの、パティン?」
「すぐにでも長に名前を付けてあげてよ!」
「付けてあげたいのは山々なんだけど、なかなか思いつかなくて。」
パティンの目の前にルイルが出てきました。
「急にどうしたんだよ?名前のことでそんなに真剣になったりして…」
「長がキオの家に行ったのはなぜ?」
「何言ってんだ、今さら。体中けがだらけだったから助けてもらおうとしたんだよ。なあキオ?」
「そうだね、今は何を考えているかわからないけど。」
キオの答えにパティンは首を振りました。何度も何度も振りました。
「今もまだ長は助けを求めているんだよ、きっと。」
さらに一歩、ルイルがパティンに詰め寄りました。
「そんなばかな、じゃあどうして長は何も食べないんだよ?!どう見たって助かりたい態度じゃないだろ!」
「その理由はわからないけど…」
まただ、とパティンはあきれた顔をしました。
「ねえパティン、助けを求めているから名前を付けてあげるってどういう事なの?」
「名前で呼んであげれば、長ともっと仲良くなれるような気がするんだ。そしたらきっと素直に助けを求めてくると思うんだけど…」
「どういう事なのかさっぱりわかんないよ!」
キオもよくわからないような顔をしています。名前を付けたらどうにかなるというのでしょうか。でも、パティンの顔を見ていると何故かキオもそうしたほうがいいと思えてきました。すぐにルイルとパティンが言い合いを始めました。

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第十章「秘め事」【8】

「でぇ…わかりますよぉ…あの御方はすぐにひねくれなさるからぁ…ばげぇ」
「この事を知っているものは数少ない。お前も黙っていてくれよ。」

ちょこんと頭を下げ、ゲジョルは答えました。
「ぁあい…仰せのままに…どでぇ…まあ、心配には及びませんでしょう…赤毛の娘はきっと手に入れることができているでしょう…ごべぇ…」
「だといいんだがな。もししくじったら、ますます兄さんの肩身が狭くなってしまうよ。」

そういってタルティアスは部屋の中をうろうろと歩きました。ゲジョルにはその姿が兄の事を心配している風を装っているとしか見えませんでした。

    

タルティアスはぴたっと足を止め、ゲジョルにこう尋ねました。
「そろそろ教えてくれよ。私のことをいつから探してたんだい?」
「私が赤毛の娘のぉ…捜索を命ぜられてからぁ…タルティアス様はたびたび本城を抜け出してぇ…ぎ、ぎびゃあ…ぐぇ…何十日も帰られなかったと…という噂を耳にしましてねぇ…」
「私に尾行を?」

否定するようにゲジョルは手を振りました。
「王子様の命をお守りするのは…ごぇ…フェリノア兵の使命でございますゆえ…ふわぁ…居場所を把握しておくのは当然でしょう…ぎぃ」

再びタルティアスは部屋の中を歩き回りました。知らない所で自分を監視されていたことが気に入らなかったのです。窓の近くまで寄ると、王子は硝子を指でなぞりました。
「十六班には重要な任務があっただろうに。他の班が手をつけなかったことを、人手を割いてまでなぜわざわざお前が?」
「ひぃやぁ…はぁ…十分関係があったもので…ぐへぇ…」

片方の口の端がかすかに引きつり、タルティアスは窓から離れ、部屋の中央にある椅子に座りました。そしてゲジョルを見つめてこう言いました。
「それは興味を引かれるな。お前の任務と私に関係があるとは…どういうことだ?」
いつの間にかゲジョルの額に脂汗がにじんでいました。タルティアスに見られているというだけで緊張感に縛られてしまったようでした。
「ふぅ…あぁ…そもそも、赤毛の娘を探せとは一体誰からの命令であったのか?…おべ…それが疑問でございました…ぐしゅう…」
「本城で命令されたのであろう?それならすぐにわかるはずだ。違うか?」
「しいぃやあぁ…命令は長老院のルーカンから下されました。そこから遡って、遡って、さらに遡って…ぐほぉ…行き着いた先はオノト様。しゃしゃぁ…もちろんご存知でしょうなぁ…タルティアス様のお、さ、な、な、じ、み、のオノト様でぇ…ございますよぉ…」

一瞬の沈黙の後、タルティアスは大声で笑い出しました。それは愉快そうに、笑いすぎてむせ返るまで彼は笑い続けました。
「…ああ、苦しい。オノトとはよくぞ言ったものだ。それでは何か、オノトの命令でフェリノアの軍が動かされたとでも言うのか?!幼なじみとはいえ、オノトは貧乏下級貴族、平民と紙一重の暮らしをしている身分だぞ。」
「その通りでぇ…オノト様は下級貴族だから、手段を選ばず口を割らせることができました…えげ…ひぁあ…」
ゲジョルの言葉にタルティアスの顔が一瞬引きつりました。言葉の出ない王子の前で、ゲジョルは苦しそうに笑っていました。
「ご…ごふ…ばふ…初めはオノト様がタルティアス様と親交がおありとは露も知りませんでしたが…わかってみればぁ…納得でしたなぁ…」
「オノトは死んだのか?」
「いいえぇ…ご存命にございますよぉ…ただし、ちょいとばかし長い旅行に出てもらいましたがねぇ…うばぁげぇほぇ…」
こめかみに血管を浮き上がらせて、タルティアスはゲジョルをにらみつけました。
「恐ろしい奴だ。なぜお前のような男が十六班などに留まっているのだ。お前なら少なくとも六班には行けるはずだが。」
「ヨグドーよりは上だと褒めていただけてるんですなぁ…うれしいことでぇ…びひ…しかし今のほうが自由に動きやすくて…よいのですよぉ…」
「お前らしいといえばお前らしいな。しかし、なぜそんなことを調べた?誰からの命令だろうとお前には関係なさそうだが。」
もう一つの椅子をゲジョルに勧めました。でもゲジョルは首を振って座ろうとはしません。
「私は…私はねぇ…自分の任務の事は何でも、全て知りたいんですよぉ…くぇ…」
「では知ってどうなった?」
「がぁはぁ…わかった事は…赤毛の娘を探し出すことはほんの始まりだってぇことですよぉ…ぎぃぎぃ…」
冷ややかに感じられていた部屋の空気がぬるんだようにゲジョルには思えました。それはタルティアスが苛立っているからだとゲジョルは確信しました。それは彼の予想通りでした。
「お前の任務はもう終わったはずだ。いつまでもそんな世迷言を口にするのはいかがなものかな?」
今のタルティアスの目は何も怖くないと感じたのか、ゲジョルは目を大きく見開いて王子と対峙しました。

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第十章「秘め事」【7】

部屋の窓のそばに若い男がたっています。その男は透き通るような白い肌をしていますが、体は筋肉質でたくましく、野性的なその顔にはあごひげも蓄えられていました。一番印象的なのはその目で、一度魅入られたら凍り付いてしまうような冷ややかな目をしていました。だからゲジョルもあまりその男と目を合わせません。
「久しぶりだね、ゲジョル。よくここがわかったな。」
「あい…最後にお会いしたのは本城でした…いぃ…ご挨拶を交わしただけでございますがぁ…それから一年以上は経っておろうかとぉ…びべ…」
「そんなになるかな。お前の活躍は七班のヨグドーから聞いていたよ。内密にね。」

ヨグドーという名を聞いて、ゲジョルは不味い物でも食べたようにべろっと舌を出しました。
「あが…そうでございましたか…どうりで時々七班の人間に、ぐ、偶然顔を合わせたわけだ…」
鼻で笑った若者は話を続けました。
「確かに、七班の連中は“邪魔をするな”とお前に厳しく叱られたと言っていたよ。」
「七班と仲がおよろしいようでぇ…ヨグドーを手なづけられましたかぁ?…ぎひぁ…タルティアス様…」

タルティアスと呼ばれた青年は声を上げて笑いました。
「彼とはただの友人さ。もっとも、歳は彼のほうがずっと上だが。彼とは妙に馬が合う…といってもお前は信用しないか。」
「恐れ、い、いります…」

タルティアスは窓を開けました。ぬるんだ風が入ってきます。

    

「ところでお前は赤毛の娘を追っていたんだろ。オセアス兄さんがどうなったか知らないか?本城を出陣してからに、三度連絡が会ったらしいけど、最近はさっぱり無いらしいんだ。」
「はぁん…ぐょ…私は一度リグ・バーグでオセアス様にも…げば…お会いしましたが、元気でございましたよぉ…だじゅ…」
振り向いたタルティアスは驚いて顔をしていました。
「一度?いっしょじゃなかったのか?」
「あい…私は後のことをラゾイに任せて帰ってきたんですよぉ…しゃあ…」

このタルティアスはフェリノアの第五王子で、オセアスは第四王子なのです。オセアスは五百人のフェリノア兵を引き連れ、バドへ向かっていた“赤毛の娘”マレア・サグを手中に収めようとしたのです。
「ラゾイか…お前の一番弟子の彼のことを信じないわけではないが、オセアス兄さんを守るのに彼で大丈夫なのか?」
「けぇけぇ…ラゾイはよくやっておりますよぉ…それにワシュウ様もご一緒でしたからなぁ…子守役には事欠きますまい…ずべ…」
「ワシュウ殿が?それは頼もしい限りだ。」

不思議そうに首をかしげてゲジョルはつぶやきました。
「ほぐぁっ…タルティアス様はワシュウ様が同行されていると知ら、知らなかったんでしょうかぁ?…ぶぶぐ」

ふっとタルティアスは視線を窓の外へ移しました。
「そこまでは知らなかったな。ワシュウ殿にはご老体に鞭打っていただいて申し訳ないが…」

その時ゲジョルがしわがれた高い声で笑いました。タルティアスは窓硝子に映るゲジョルの姿を厳しい目で見据えました。
「どうしたね?」
「がぁ…ぎゃあ…おかしいなぁ…びべ…ワシュウ様に命令を出したのはタルティアス様だとぉ…耳にしましたがねぇ…じゅう…」
「私がワシュウ殿にそんな命令を出すわけが無い。一体誰からそんな話を聞いたんだね?」

腕を組んだゲジョルは思い出すように天井を見上げていました。
「べごわぁ…ワシュウ様に直接命令を下した御方がそう申しておりましたなぁ…じぢ…」

タルティアスは開いているほうの窓をそっと閉めました。そして肩をすくめながら別の窓のところへ歩きました。ゲジョルはぎょろっとした目でタルティアスの姿を追いました。
「困ったな。秘密にしておいてくれと言っておいたのに…」

苦笑いをする第五王子を見て、ゲジョルは真顔で丸まった背中を揺らしました。
「実は…オセアス兄さんと同行してくれる者が誰もいなくてね。みな渋い顔をするんだよ、オセアス兄さんの名を聞くと。」
「ざがぁ…でしょうなぁ…」
「だから仕方なくワシュウ殿に無理をいってオセアス兄さんに付いていってもらったんだ。この事がオセアス兄さんにばれると気を悪くするから黙っていたんだ。」

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第十章「秘め事」【6】

疲れてふらふらのパティンは彼の体当たりをかわす事も受け止めることもできず、ばちんと弾き飛ばされました。仰向けに倒れたパティンに向かってジャージャは尻尾を振って吼えています。
「何を騒がしくしてるんだい、ジャージャ!」

ホリシカばあさんがお墓の影から顔を出しました。そして倒れているパティンに気がつきました。
「おやまあ、こんな朝早くにお客様とはねぇ…」

パティンはホリシカの家で水を飲ませてもらいました。一息ついたパティンは椅子に座ってぐったりとしています。家の外ではジャージャがパティンのことを今か今かと待っていました。今日も遊んでもらおうと企んでいるのです。
「それで、こんな所まで一人でやってくるなんて、しかもこんな時間に…何があったんだい?」

パティンは先日キオやルイルと三人で白森の丘を訪ねた後からのことを全て話しました。話を聞きながらホリシカは一つ一つ驚きの声を上げました。
「ほお…長が…!」
「僕が古森で見た長はすごく神々しく見えたんだけど、今はただの野犬に見えるんです。どうしてそうなってしまったのかがわからなくて、キオや皆も困ってるんです。もちろん僕も。」
「犬が飯を食わないなんて、うちのジャージャを見ているととても信じられないねぇ。あれは熱を出したって食べる事だけはやめないんだよ。だからあんたがせっかくあの山道を登ってきたっていうのに悪いんだけど、どうしたら長が飯を食うようになるかってのは見当がつかないねぇ。」

パティンは首を振りました。
「実は僕、誰にも言ってない事があるんです。キオにもルイルにも言えなくて…ひょっとしたらこれが全ての答えのような気がして怖くて。」

悩みに押し潰されてしまいそうに苦しげな表情をパティンは浮かべていました。ホリシカはそんなパティンの頭を優しくなでてやりました。
「だからこんな所までやってきたんだね?一人で苦しんで…いいから話してごらん。ホリシカ様は何でも聞いてあげるから。」

そこでパティンは長のために古森の小川へ水を汲みに行った時のことを話しました。二匹の野犬の死体、その首にあった傷が致命傷だったということ、パティンはそれらを話し終えてから、最後にこう付け加えました。
「たぶんキオと長は友達になんかなれないよ。長と僕らは住む世界が違いすぎて接点が見つからないんだ。長には全部わかってるんだ。だから生きることを諦めたんだ…!」
「おやめ、パティン。」

ホリシカが静かに彼を制しました。
「長にだって全部はわかっちゃいないんだよ。分かっていないからあんたたちの所へやってきたのさ。わかっていたら古森でそのままのたれ死んでしまえばよかったんだからね。だから望みが全く無いわけじゃない。あんたたちが諦めたりしない限り、今は違う世界にいるとしてもいつかは必ず出逢えるんだよ。」

今のパティンにはホリシカの言葉全てを納得する事はできませんでしたが、ためていたものを吐き出して心が軽くなった気がしました。
「ホリシカさん、ありがとうございました。僕、帰ります。学校へ行かなくちゃ。」
少しすっきりした表情のパティンを見て、ホリシカも笑顔になりました。
「そうかい、じゃあしっかり勉強しておいで。帰りも気を付けてな。」
「はい!」

パティンはジャージャにも別れを告げ、元気に丘を下りていきました。ジャージャは名残惜しそうにきゅーんと鳴いています。パティンが去った後、ホリシカは墓地の雑草を抜いて回りながら物思いにふけっていました。それからジャージャと共に丘の上から白森の村を見下ろしました。そしてジャージャの頭をなでながらぽつりとつぶやきました。
「たまには村に下りてやるのもいいかもしれないね、ジャージャ?」
ジャージャにはホリシカの言葉が通じたのか、ハッ、ハッ、と舌を出して嬉しそうに尻尾をびゅんびゅんと振っていました。

    

物見の塔の階段を上っていたゲジョルはぞくぞくとするような冷気を感じました。
「ひぇ…やれやれ…ちょっと見ない間にぃ…末恐ろしやぁ…げへぇ…」

ゲジョルは最上階に到着し、目の前の扉をごん、ごん、と強く叩きました。
「ゲジョルか?入りなよ。」

中から声がして、ゲジョルは扉を開けて部屋に入りました。部屋はあまり広くなく、ベッドと戸棚、中央に椅子と小さいテーブルがあるだけの殺風景なものでした。

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第十章「秘め事」【5】

「お姉ちゃんは自分の目が赤いことなんて気にしてなかったもの。」
「そうなの…?」
「ウィレオ姫様はどうしてそんなに気にするの?」
「気にして当然でしょ!私のお父様もお母様も上の姉様も下の姉様も、こんな黒い肌をしていないのよ。きっと私だけがもらわれてきた子なのよ。だから私がまだ十二歳なのにお嫁に行かされるんだわ、きっと。みんな私を追い出せるからせいせいしているのよ。だから私は一人でリグ・バーグに行かなきゃならないのよ。誰もついて来てはくれなかったわ。」

シノンはウィレオの前に両膝をつきました。
「どうしてそんな風に思うの?今までいっしょに暮らしてきた人がいなくなったら寂しいに決まってるわ。」
「あなたに何がわかるの?」
「わかるわ。だって私のお姉ちゃんはバドへ行ってしまったんですもの。私、お姉ちゃんがいなくなってとても寂しいわ。」
「バドへ?バドって、トミアの向こうのあのバドなの?」
「そうよ、バドはとっても遠いわ。だから今度はいつ会えるかなんて全然わからないの。でも私お姉ちゃんのこと忘れたりなんかしない。ウィレオ姫様のお父さんもお母さんも二人のお姉ちゃんだってそうよ。ウィレオ姫様と離れて暮らす事になるのに寂しくないわけがないわ。」

ワイミーはシノンのことを心配そうに見つめています。姉のことを思ってシノンが泣いてしまうのではないかと思ったからです。でもシノンはぐっと堪えました。その間、ウィレオは押し黙っていました。そして帽子に止めておいたベールを再び顔の前に垂らしました。
「二人とも、今日はもう帰っていいわよ。私、これから用事があるの。」
「ウィレオ…」

まだ話し足りないシノンの手をワイミーは引っ張りました。
「シノン、行きましょ。姫様の邪魔をしてはいけないわ。」

    

旅館街の通りを二人は手を繋いで歩きました。道の両端には特殊遊撃隊の少年兵たちが警護のために立ち並んでいます。ワイミーはささやくようにシノンに言いました。
「私、本当はびっくりしちゃったの。だって、お姫様の肌があんなに黒いだなんて思ってもみなかったもの。」
ワイミーの告白を聞いたシノンは目を丸くしていました。
「あっ、でも違うのよ。お人形さんだって思ったのは本当よ。肌が黒いってだけで隠してしまうなんてもったいないわ。」

シノンは何も言わずにうつむきました。
「ねえ、さっきからどうしたの?全然しゃべらないなんて。どうしてそんなに元気が無くなっちゃったの?」
道端に立っている少年兵の中にインザがいました。彼に気がついたワイミーは軽く手を振りました。シノンは気がついていないようで、うつむいたまま彼の前を通り過ぎました。
「インザってよく見るときれいな顔をしているわね。シノンもそう思わない?」
でもシノンはやっぱり黙ったままです。他に話すことが見つからないワイミーも困ってしまいました。旅館街の通りの出口に差し掛かったとき、ようやくシノンの口が開きました。
「ウィレオ、寂しそうだったわ。」
彼女が元気を無くしていた理由がワイミーにもようやくわかりました。
「うん、いつも一人だから寂しいのよね。」
「明日もいっしょにいてあげなくちゃ。」
「そうね、姫様がリグ・バーグへ行くまではいつもいっしょにいてあげましょうよ。」
二人は旅館街を出ました。そしてそれぞれの家へ向かう分かれ道で手を離し、手を振りながら別れました。一人でいるとシノンはふと寂しくなりました。ワイミーとはいつまでいっしょにいられるのだろうかと。

    

白森の丘へ続く道をパティンは一人で黙々と歩きました。運動が苦手で、体力もキオやルイルよりずっと劣る彼にとってはとても厳しい道のりでした。この前みたいにいっしょに歩いて檄を飛ばしてくれる友人もいません。何度かやめて引き返そうと思いましたが、そのたびに必死に思い直して上を目指しました。松明を持つ手が重くて垂れ下がるため、前方よりも足元を照らすのがやっとです。だから突然目の前に木の枝が現れてパティンを驚かせました。気がつくと木々の輪郭がはっきりと認識できるようになっていました。日の出が近いのです。遠くに丘の裾と空の境界線が見えるように思いました。もうすぐです、パティンは懸命になって歩きました。そして地平線から太陽が顔を出してすっかり明るくなった頃、火を消した松明を杖がわりにして歩いてきたパティンがようやく丘の頂上にたどり着きました。休む間もなく彼はまっすぐ墓地の中にあるホリシカばあさんの家へ向かいました。墓地に入ってしばらく歩くと、ジャージャのお出迎えがありました。ジャージャはものすごい勢いで走ってきて、その速度のままでパティンに飛びつきました。

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第十章「秘め事」【4】

「そうね。幸せってのは大げさだけど、こんなの食べたの初めてだから嬉しいわ。」
「あなたたちは普段どんなお菓子を食べてるの?」
「お菓子?私はお母さんが焼いてくれた小さなポロレぐらいしか食べたことがありません。」
ワイミーは親指と人差し指で輪っかを作ってウィレオに見せました。
「ポロレ…?知らないわ。それと、あなたのお母様はコックの真似事をするの?」
「真似なのかしら?私の家では料理を作るのはお母さんだけです。」
「ああ、そうなの。コックがいるわけじゃないのね…」

その時、ウィレオはゾクッとしました。ワイミーとの会話に夢中になっている間に、シノンがベールの隙間からウィレオの顔を覗き見しようとしていたのです。すぐにワイミーに注意され、シノンはばつが悪そうに笑いました。
「シノンは私の顔がそんなに見たいの?」
「当たり前よ。せっかく友達になれたのに、顔を一度も見たことがないなんておかしいわ。」
「シノン、もっと丁寧にお話しして。」
「何で?友達なのにそんなに気を使わなくちゃいけないの?!」

慌ててワイミーはシノンの口を塞ごうとしました。そんな事はさせまいと、シノンはワイミーの手をはたいています。ウィレオにはそれが二人ではしゃいでいる様でうらやましく感じられました。
「そうね、おかしいわよね、やっぱり…。いいわ、見せてあげる。」
はっとして二人は暴れるのをやめました。ごくっと音を立ててワイミーは息を呑みました。二人に注目される中、ウィレオは両手でベールのふちを摘んでいます。さっきからシノンは口を半開きにしています。ウィレオはゆっくりとベールを持ち上げていきました。彼女の手はかすかに震えていました。そしてついに彼女の顔が露わになりました。

    

二人は彼女の顔をしげしげと眺めています。その間ウィレオは目を閉じていましたが、あまりに静まり返っているのでひょっとして二人とも帰ってしまったのではないかと思い、彼女はゆっくりと目を開きました。すると二人の顔はウィレオの真ん前にあったのです。驚いたウィレオはさっと目をそらしました。ウィレオはとても大きな目をしていて、鼻筋が通り、少し厚めの唇は彼女を大人っぽく見せていました。でもこの姫がベールで隠していたのは顔のつくりではなく、二人と決定的に違う肌の色でした。彼女は浅黒い肌をしていたのです。色白なシノンやワイミーに比べると、ウィレオの肌は真っ黒にも見て取れました。彼女が“黒姫”と呼ばれているのは服のせいではなく、この肌の色のせいだったのです。
「なぁんだ。」
ぽつりとシノンがつぶやきました。
「いかにもって感じで勿体つけるから、さぞや怖い顔でも出てくるのかと思ってたのに。これじゃあ拍子抜けだわ。」
「シノン、言葉が乱暴すぎるわ。せっかくウィレオ姫様がお顔を見せてくださったのに。」
「…あなたたち、私の顔を見て驚かないの?」
「私、とっても驚きました。だってウィレオ姫様はとっても愛らしくて、まるでお人形さんのようなんですもの!」
「お世辞は言わなくていいって言ったでしょ。」

でもワイミーはきらきらとした目でまっすぐにウィレオを見つめています。そのうっとりとした表情を見て、どうやら嘘を言っているわけではないようだと姫は思いました。
「シノン、あなたは?あなたは本当に驚いていないの?」
「さっきから驚いたの驚いていないのと、一体どういうことなの?私たちが何を驚くって言うのよ?」
「わざわざ言わせないでちょうだい。この真っ黒な肌のことよ!」

シノンとワイミーは顔を見合わせ、首を傾げました。
「別に、そんな事驚いたりしないわ。」
「じゃああなたの周りにこんな真っ黒な人がいるの?」

少し考えてからシノンは答えました。
「黒い人はいないけど、私のお姉ちゃんは目が赤かったわよ。」
「目が?!」
「そう、この目の事よ。」

そう言ってシノンは自分の目玉を左右にくりくりと動かしました。
「あなたのお姉様だけが赤かったの?」
「そうよ。お父さんもお母さんも赤くなかったし、村にも目が赤い人なんて誰もいなかったわ。」
「そう…。じゃああなたのお姉様もきっと私のようにずっと顔を隠していたのよね?」

きっぱり否定するように、シノンは大きく首を振りました。
「お姉ちゃんは隠したりなんてしなかったわ。」
「どうして?」

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