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第二十七章「コドバタ村のヤモキ」【5】

あそこだ、崖の所。
ドクが顔を向けたその先、湖を挟んだ反対側に、そそり立つ崖が見えます。
全員で目を細めて眺めてみると、そこに人が数名並んでいるのがわかりました。
「正規兵のように見えなくもないな。」
「おい、槍を持ってるぞ、間違いない。」
「そんな事より、よく見てみろ。
ぽっかりと穴が開いてる。洞窟になってるんだ。」

セイグの言うとおり、崖の足元には黒い穴が口を開けており、その周りに橙色の鎧を着た兵士が五、六名立っています。
比較してみれば、崖の大きさは人の背丈よりずっと大きいと思われました。
「あれが集落なのだろうが、これ以上は近づけないな。」

今度は上から中の様子を窺うという訳にはいきません。
あそこにキオの両親やセイグの家族がいるかもしれませんが、今は確認する手立てがありません。
「仕方がない、次を探そう。」

キオとセイグの未練を断ち切るかのように、ユドゥマコルがつぶやきました。
    
    
ウルテキが見つけたという最後の集落は、ここからさほど遠くないようです。
方角を確認しつつ、雑草が生い茂る中へ入っていきます。
その草の丈は大人の首辺りまで伸びており、キオとドクの姿はすっぽりと隠されてしまいました。
「はぐれるなよ、キオ。」
「大丈夫です、ドクがそばにいるから。」

ソーヴァンの呼びかけにキオが答えました。
青々とした草原の間を風が吹きぬけ、ざざざざと騒ぎ立てます。
心地よいと思われたのは始めだけで、草原を揺らす風は次第に強くなり、キオの行く手を阻みます。
あちらこちらから草が束になって、彼に襲い掛かってくるのです。
草の塊はやけに重く、キオは押しつぶされないように逃げるばかりです。
草をかき分けかき分け、何も見えないもどかしさに焦りを感じます。
「ドク…ソーヴァンさん…」
風はますます強く吹き荒れ、自分がどこを向いているのかもわかりません。
それは大人たちも同じで、とてもまっすぐは歩けません。
自分たちより低かったはずの雑草たちに覆い被されるようです。
かろうじて首を突き出したソーヴァンが見渡すと、草原は信じられないほどうねり狂っていました。
「キオ…!」

ユドゥマコルの声も風にかき消されてしまいます。
「どこだ、キオ…返事をしてくれ!」
この乱暴な風は、ドクの嗅覚さえも鈍らせました。
キオを探しに行こうとすると、草の壁に押し返されてしまいます。
その場に立っていることすら叶わなくなり、風の吹く方向へ流されていきます。
人間たちはもちろん、ドクにも逆らうことはできません。
一番最初に草原から吐き出されたのはセイグ、次いでユドゥマコル、さらにソーヴァン、そして最後にドクでした。
彼らは自分の目を疑いました、草原の外は嘘のように穏やかなのです。
「どうなってるんだ、まるで俺たちを拒絶しているみたいじゃないか。」
その意思を露わにするかのように、背の高い雑草たちは暴れていました。
「まずい、キオがいないぞ?!」
「くそっ、はぐれてしまったんだ!」
「どうする、探しに行こうにも、また追い出されてしまうぞ?!」

もう一度草原の中へ飛び込もうとしたドクですが、雑草は固まって壁のようになり、彼を弾き返すのです。
返す刀で天を仰ぎ、ドクは遠吠えを始めました。
高く、長く、何度も、遠吠えを繰り返します。
「風が止むまで待つしかない。」
「ああ、可愛そうに、キオ…」
「大丈夫さ、あいつは俺たちが思っている以上に強い子だ。
きっとキオも草原の外へ脱出しているはずだよ。」

喉が痛み、声が枯れ果てるまで、ドクの遠吠えは続きました。
大空へ吸い込まれていったドクの悲痛な叫びは、キオ・マシュルに届いたのでしょうか。
    
    
温かい毛布に包まれて寝返りを打ったのは、誰あろうキオでした。
現在彼は小さな家のベッドで眠っています。
少々寝相が悪すぎました、キオはベッドから床へ転げ落ちたのです。
でも、毛布だけは手放しません。
自分が落ちた音に驚き、キオは目を覚ましました。
ぼんやりとした視線の先には、家の細い柱がありました。
一瞬彼は、ここが白森の村の我が家だと思いました。
でも、握り締めていた毛布は、彼が慣れ親しんだものではありません。
キオは立ち上がってベッドの上に毛布を置き、寝室を出ました。
そこはすぐ別の部屋で、一つだけある窓から日の光が差し込んでいます。
目の前には丸いテーブルがあり、その上にはチーズと固そうなパンが載っていました。
それを見ただけで、キオの腹の虫が鳴き始めます。
「食べていいぜ。」

びっくりして、目が飛び出してしまいそうになりました。
窓がある壁とは反対側に台所がありましたが、そこは思ったよりも奥まっていて、キオから死角になった所に一人の少年がいたのです。

第二十七章「コドバタ村のヤモキ」【4】

封筒に書かれた父親の文字に、もう何年も会っていないような懐かしさを覚えるソーヴァンでした。
<キオ、元気?
僕は元気だよ。
ウルテキさんから話を聞いて、僕たちはだまされて連れて来られたんだって知りました。
ここにいる皆は元気です。
でも、キオのお父さんやお母さん、それにルイルはここにはいません。
でも心配はいらないよ、きっと別の集落で元気にやってるはずだから。
僕たちが連れて来られた理由はわからないけれど、とにかくまだここから解放されるには時間がかかりそうだね。
だけどきっとカロエン様が助けてくれるよね、信じて待ってるよ。
一つ忠告しておくけど、キオはもう無茶しないでね。>

大変なのは自分のほうなのに、無鉄砲な友人を気遣う言葉で文面は締めくくられていました。
ディスマン氏の手紙には、外の世界と遮断されて、何の情報も入ってこない苛立ちと不安が書き連ねてあったそうです。
麻袋に入っていた手紙の宛て先は様々でした。
別の国に住む友人や、他の村に住む両親、はたまた同じ白森の村の住民に宛てたものもあります。
「あの手紙もウルテキさんが届けてくれるの?」
拒否の意思を示すように、ウルテキはひらひらと手を振りました。
「嫌なことを思い出すから、見たくも無い。
少なくとも、またあんな集落へ入るのは御免だぜ。
まあ、まともな所への手紙なら、持ってってやってもいいが。」

セイグは手紙の山を前にして、がっくりとうなだれています。
彼の家族からの手紙は無かったようです。
「パティンが教えてくれたんだがな、あんたの娘も他の家族も見ていないってよ。」
「とにかくウルテキさん、あんたには世話をかけたな。」

ユドゥマコルも彼の労をねぎらい、握手を交わしました。
「まったくだ。
お人よしの性分を改める努力をするよ。
後はあんたたちに幸運があるよう、忘れずに祈っててやるさ。」
隠してあった馬車に乗り込み、ウルテキはキオたちの元から去っていきます。
彼のおかげで、白森の村の人々と接触を図ることができました。
バドニアへ来てから、ようやく一歩進んだ、そんな気分です。
    
    
「少なくとも後二つはあのような集落がある、ウルテキはそう言っていた。
だったら、その二つをこの目で確かめに行こうじゃないか。
後々にマセノア政府から人が来た時、すぐに案内して皆を解放してやれるってもんだろ。」

ソーヴァンはそのように提案しました。
父親の無事を知り、彼の気持ちはかなり高揚してきたようです。
キオとセイグは賛成しました。
彼らの家族は、あの集落にはいませんでした。
会えないまでも、せめてどこにいるのか、その手がかりだけでも掴みたいと望んでいます。
ユドゥマコルは彼らの行く所、どこへでもついていくつもりです。
さてしかし、この森から出た下りの道は使えません。
ウルテキが集落へ向かう時に使ったこの道は、枝分かれをすることなく集落とつながっているのです。
言うまでもなく、そこにはバドニア兵がいるのですから、見つかってしまうのは必至です。
そうなってはややこしくなるので、別の道を進むのが賢明でしょう。
ウルテキがここに来るまで利用した道も使いたいところです。
しかし基本的に配達人は最短経路を通らず、遠回りの道を利用するのです。
少しでも長くその地を回り、地図にない村や町を探し訪れるのです。
彼らは前言を撤回します、そのような時間を浪費する道を使ってはいられません。
ウルテキが大雑把に書いてくれた、別の集落への地図を頼りに、最短経路を探すこととなりました。
下りの道とは反対の方角を目指すため、一旦森の中へ戻ります。
それにしても、トステマタは広大な森です。
この森のせいで、バドニアは隣国マセノアとの交流もなかなか進みません。
でも、この森のおかげで外敵の侵入を阻んできたともいえるのです。
あの黒い犬率いる群れに襲われたら、生半可な軍隊では甚大な被害を受けてしまうでしょう。
いくつかの集団に分けられた村人が、どのチテンから別の集落へ道を変えたのか、ドクの鼻をもってしても突き止めるのは容易なことではないようです。
進んでは戻り、進んでは曲がるを繰り返します。
そうして日が暮れそうなほど歩いた頃、ようやくかすかな村人の臭いを嗅ぎつけました。
辺り一面が斜面になり、それを下っているのがわかります。
しかもまっすぐな下り坂ではなく、段々とまるで階段を下りているような感じです。
そして再びトステマタの森を抜けると、目の前には大きな湖が広がっていました。
少々緑がかった水面には、白鳥の群れが浮かんでいます。
その湖の向こうには、大きな山々が連なっているのが見えます。
今度は湖に沿って、慎重に歩きます。
見晴らしが良くなった分、自分たちの姿も丸見えだということですから。
ところが、目を凝らしても集落の存在は確認できません。
ウルテキの地図によれば、湖の近くということなのですが。
「書いた本人もうろ覚えだったんだろう。
後は自分たちで探すしかないな。」
ソーヴァンがそう言うと、ユドゥマコルも頷きます。
―待て。
ドクが止まったので、キオも足を止めます。

第二十七章「コドバタ村のヤモキ」【3】

「仕事のために、命を落とすか?」
「待ちなよ、俺は別にあんたたちのやってる事をとやかく言うつもりは無いんだぜ。」
「我らがやっている事を、どこまで知っているのだ?」
「少なくとも、ここにいるのがマセノア国の人間だっていうのは聞いた。
しかも、こんな所に閉じ込められる言われはないって事もな。」

槍を向けたバドニア兵が、じりじりと近寄ってきます。
今さら逃げようとしても、背中から一突きにされてしまいそうです。
「もういい、手紙だけでも置いていけ。」
「これを置いていった所でどうなる?
白森の村の者がいなくなったって事は、とうにマセノア政府にだってばれてるんだ。
それを隠し通そうだなんて、どだい無理な話だと思わないのか?」
「それとこれとは話が別だ、お主を黙って見過ごすわけにはいかん。
何もしなかったのかと責められるのは我々なのだ。」
「なるほど、そういう事か。
要は自らの保身のために、人が真剣に書いた手紙を取り上げようって魂胆かよ。
だけどそんな理由じゃ、なおさらこれは渡せないな。」

他の兵士たちは動かず、一人だけが迫ってきています。
彼が責任者かどうかはわかりませんが、彼の判断に任せようということでしょうか。
「返事が無いのは図星ということだ。
まあ、どちらにしてもいけ好かないね。
でも、それはいい、俺が言うことじゃないからな。
とにかく、あんたたちの気持ちはわかった。
じゃあこうしよう、俺は手紙の代わりに、この上着を残していく。
それでどうだい?」

意味が通じなかったらしく、バドニア兵はきょとんとしています。
麻袋を足元に置き、ウルテキは上着を脱ぎました。
そして右袖の二の腕辺りを指差します。
「これを見なよ。国際配達人であるって証拠だ。」

そこには緑色で大きな葉が一枚、小さな葉が二枚、刺繍されています。
さらに裏地の左胸付近には、ウルテキの名前が同じく緑色で刺繍されていました。
「俺がここへ来たっていう、確かな証拠だぜ。
他では手に入らない貴重な品だ。
俺はあんたたちとやり合って、逃げようとした際にこれを脱いでいった。
後はその槍でこれを串刺しにして、あんたたちがちゃんと仕事をしたって見えるようにすればいい。
それで手を打とうじゃないか?
いいか、これは俺にとっても大きな痛手だ。
正規兵と揉め事を起こしたことがばれたら、給料を減らされちまうかもしれないんだからな。」

ウルテキの提案に、バドニア兵は迷いました。
それで本当に通用するのかどうか。実は、ここで見張りをしているバドニア兵たちは、どんな理由でマセノア人を監禁しているのか知らないのです。
見た限り善人にしか思えない老若男女を閉じ込めておくことを納得できているわけではないのです。
ですから彼は槍の穂先を下ろし、ウルテキの上着を受け取りました。
他の兵士たちにも異論は無いようです。
油断はできませんが、ひとまず交渉成立のようです。
ウルテキはゆっくりと麻袋を拾い上げ、再び背負います。
「お互いに仕事熱心なのはいいことだ。
ありがとう、バドニア兵の皆さん。」

何度か後ろを振り返りながら、ウルテキはバドニア兵の前から立ち去っていきました。
服の中で大量の汗が肌を伝って落ちていくのがわかります。
一歩間違えれば何本もの槍に体を貫かれ、故郷から遠く離れたこの地で生涯の幕を下ろすところでした。
はやる気持ちをこらえ、懸命にゆっくり歩きます。
そして顧みてもバドニア兵の姿が見えなくなると、彼は走り出しました。
坂道を駆け上がり、よろめきながらも足を止めることはありませんでした。
麻袋が邪魔でしたが、さすがに捨てるわけにもいきません。
    
    
ウルテキが戻ってきたことに最初に気付いたのは、この時もドクでした。
キオやソーヴァンの姿を見かけると、彼は安心したようにその場でへたり込んだのです。
「ウルテキさん!」
「喉がからからだ、水を飲ませてくれ。」

キオが駆け寄り、水を飲ませてやります。
それからウルテキは麻袋をキオたちの足元へ放り投げました。
地面に落ちた袋の口からは、大量の手紙が散乱しました。
「村人から無理やり持たされた。
そのおかげで、こっちは危ないところだったけどな。」

そこに飛びついたセイグは、一通一通差出人の名前を確かめています。
一息ついて座り直したウルテキは、懐から別に手紙を二通取り出しました。
「あそこの責任者はディスマン氏で、これが彼からの手紙だ。」
「父さんが、いたのか?!」
「あの人も、あんたが来ている事を驚いていたよ。
そしてキオ、お前にはパティン・タラサからだぜ。」
「パティンが…元気だった?」
「ああ、真っ先に俺のところへ来てくれたよ。
おかげでディスマン氏にもすぐ会えたって訳だ。」

ウルテキから手渡されたその手紙には、確かに学校で見たことのあるパティンの文字が並んでいます。
「サラヴィス・ディスマン…間違いなく、父さんの署名だ。」

第二十七章「コドバタ村のヤモキ」【2】

「これでマセノアは終わりだ!」
「お母さん、“侵攻”って何の事?」

慌てふためく村人たちをなだめ空かし、村長は説明を続けました。
「フェリノアの連中は既にムーバットを陥落させ、マセノア全土に兵を送り込んでいるようだ。
奴らの侵攻を止める手立ては無く、早くもラムラス村の手前にまで迫っているらしい。
そこでバドニア国の方は、危険が迫っている我々を、自分の国へ避難させてくれるというのだ。」

ところが、村に残ると言い出す人も出てきました。
その中には、キオの両親・ゴルとシアもいました。
「俺の子供たちが東銀徳村へ行って、まだ帰ってきていないんだ。
フェリノア軍がやって来たところで鉢合わせしたら大変だ。
あいつらが帰ってくるまで、俺たちは避難などできん!」

他にも村をあけている者の家族は、戻ってきてから一緒に避難すると言い始めたのです。
でも村長は首を横に振ります。
「それでは足並みが揃わなくなる。
勝手な行動は慎んでくれ。
心配はいらん、後から村に戻ってきた者もバドニア国の皆さんが責任を持って避難させてくれるそうだ。
とにかく今は全員でバドニアへ向かうんだ。」

未練は残るものの、ゴルやシアは渋々従いました。
そして白森から入ってトステマタを抜け、バドニアへやって来ました。
そこで村人はいくつかの集団に分けられ、ここと同じような集落に収容されたのです。
ですが日数が経つにつれ、村人たちには不満が募ってきました。
高い塀に囲まれて外の様子を見ることすら叶わず、もちろん外へ出ることも許されません。
他の集落へ収容された村人の安否が気がかりでも、そんな情報は全く伝えられてきませんでした。
そんな中で、ウルテキはバドニア軍兵士以外では初めての来客だったのです。
「つまり、我々はだまされたという訳だ。
何が目的かは知らんが、バドニアの連中は私利私欲のために、我々をここへ連れてきたのだな。」
「全くもって、おっかない話だね。」

ディスマン氏の話を聞いて、ウルテキはますます事の重大さを知りました。
こうなると、ここを無事に出られるのかさえ怪しく思えてきます。
「ウルテキさん、これをキオに届けてください。」

パティンが手紙を書き終え、ウルテキに手渡しました。
下手な好奇心のために、とても厄介なことに巻き込まれた気がしてなりません。
「まあ、あんたたちの領主様には伝えてあるって言うんだから、そのうち何らかの動きはあるだろう。
あまり焦らず、もうしばらく辛抱したほうがいいと思うぜ。
なあ、パティン?」
そういうとウルテキは立ち上がり、小屋を出ようとしました。
ところが驚いたことに、小屋の前には大勢の村人が人垣を作っていたのです。
ウルテキが本当に配達人であることを聞いて、集落にいるほとんどの村人が集まってきたと思われます。
ウルテキはその視線を一身に浴びていました。
「おいおい、待ってくれよ…」
彼らはその手に一通ずつ、手紙を携えていました。
それがウルテキを戸惑わせたのです。
案の定、ウルテキの元には、持ちきれないほどの手紙が集まってしまいました。
断るべきなのかもしれませんが、村人たちの顔を見てしまったら、とても言い出せません。
手紙を入れるための麻袋を、ヒャトンじいさんが用意してくれました。
これはバドニア軍から配給された野菜が入っていたものです。
どうしようもなく、そこへ手紙を詰め込みました。その間に、セイグの家族がいないかと確かめましたが、どうやら他の集落にいるようです。
そして白森の村の人々に見送られ、ウルテキは集落の出口へ向かいました。
果たして、この麻袋を見たバドニア兵は、何と思うでしょうか。
中の状況が外へ漏れることは、彼らにとっても決して都合の良いことではないはずです。
    
    
頭を低くしながら、ウルテキが出口をくぐって外へ出た時、やはりバドニア兵は厳しい顔で彼を睨んでいました。
彼、というよりは彼が背負っている麻袋のほうに視線が集中しています。
「ウルテキとやら、その荷物は何だ?
入る時にはそんな物を持っていなかったな?」

先ほどは引いてくれた兵たちですが、今度はそうもいかない面持ちです。
「これは、その、言ったはずだ、俺の仕事さ。」
「手紙が入っているのだな?」
「その通りだ、だけど、手紙をもらってくると告げたはずだぜ?」
「それをどこへ持って行くつもりだ?」
「それぞれ宛名が書いてあるから、そこへ届けるんだ。」
「貴様、ふざけてるのか?!」

決してふざけているわけではありません。
ウルテキにだって、これらの手紙をどこへ持っていけばよいのか判断できないのです。
「俺はいつだってまじめだぜ。
そりゃあ、あんたたちにとってこの手紙の内容は気になるだろうな。
知られてはまずい事が書いてあるかもしれないんだからな。
だが手遅れだ、一度預かってしまった以上、俺にはこれらを無事に届ける責任がある。
あんたたちには一通だって渡せないぜ。」

槍の穂先が再びウルテキへ向けられました。

第二十七章「コドバタ村のヤモキ」【1】

小屋の中にはディスマン氏の他に老人が一人と女性が二人いました。
使用人のヒャトンじいさんと、家政婦のツォノにセーロです。
「やあどうも、ディスマンさん。
俺はウルテキ、あなたはソーヴァンのお父上だね?」
「息子の事を知っているのか?」
「ああ、驚かないで聞いてくれよ。
白森の村からトステマタの森を抜けて、ソーヴァンとセイグ、それにキオが来ているんだ。
彼らは、あんたたちが村から連れて行かれた晩、村にいなかったから助かったんだ。
そしてもぬけの殻となった村を救うため、ここまで数人だけでやって来たという訳さ。」

小屋の中にいたパティンたちは、ウルテキの言葉一つ一つに引っかかっていました。
「ウルテキさん、それでは村は無事なのかね?!」
「村人がいなくなったんだから、無事だとは思えないがね。
まあ、そこまで詳しい話しは俺も聞いていないんだ。
おっと、これを忘れる所だったよ。」

自分の懐から取り出した手紙を、ウルテキはディスマン氏に手渡しました。
「キオ・マシュルからの手紙だ。」
「キオから?!」

ディスマン氏より先に反応したのはパティンでした。
<村のみんなへ。
僕はゴル・マシュルの息子、キオです。
皆の後を追って、近くの森まで来ています。
皆がいなくなってしまった事は、領主カロエン様に伝えてあるので、もうすぐ助けてくれると思います。
皆の具合はどうですか?
病気になったり、怪我をした人はいませんか?
この手紙を届けてくれたウルテキさんに、皆も手紙を書いて預けてください。
そうすれば、僕たちの所へ届けてくれるはずですから。>
「どうやら、我々が聞かされている理由と、キオたちが知っている真実には、大きな隔たりがあるようだな。」

手紙を読み終えたディスマン氏は、すぐに紙とペンを取り出し、小さな机に向かいました。
「ウルテキさん、すぐに返事を書くから、少し待っててくれ。」
「ああ、いいぜ。
でも急いでくれよな。
見張りの兵士が苛立ってるかもしれないからさ。」

ウルテキは床に腰を下ろしました。
そこへコップに入れた少量の水を持ってきてくれたのは、家政婦のツォノでした。
「私、あなたの事を覚えているわ。
玄関で手紙を受け取ったもの。」

コップの水を一気に飲み干し、ウルテキは笑顔を見せました。
「ありがとう、美味かったよ。
俺も覚えてるよ、ついつい話し込んでしまったような記憶がある。」

パティンはヒャトンじいさんと手を取り合っています。
「しかし驚いたもんだ。
まさかキオがわざわざこんな所まで来ているとはのう。」
「そうだよね、キオはあの時出かけていたから、どうなったかと心配だったものね。」

そしてパティンは、くるっとウルテキのほうへ振り返りました。
「僕もキオに手紙を書いていいかな?」
「いいけど、できるだけ手短にな。
外で見張りをしてる兵隊は、俺がここへ入る事にあまりいい顔をしなかった。
あまりかさばる手紙だと、いきなり没収されかねん。」
「はい、わかりました!」

書いた手紙をウルテキに渡し、ディスマン氏は紙とペンをパティンに貸してやります。
「少々事情が掴めてきたよ、ウルテキさん。」
「どういう事だい?」

ディスマン氏は、あの晩のことを話し始めました。
    
    
白森の村がしんと寝静まった夜遅く、彼らはやって来ました。
数人のマセノア兵を先頭に、百名ほどのバドニア兵が続いてきたのです。
このマセノア兵は、バドニア人がユドゥマコルたちから奪った鎧を着ているだけの、いわば偽物です。
彼らは手に手に松明を掲げ、村の中へ散らばっていきました。
偽マセノア兵は役場へ向かい、そこに住んでいる村長とその家族を叩き起こしました。
散会したバドニア兵たちは民家の扉を一軒ずつ叩いて回り、村人を外へ出させたのです。
突然バドニア兵に睡眠を邪魔された村人たちは、大変混乱しました。
戦争が始まったのかと怯える人もいます。
寝ていた時の格好のまま、村人は役場前の広場まで集められました。
もちろんそこにはディスマン氏やキオの両親、ルイルやパティンの姿もあったのです。
彼らを取り囲むのはバドニア兵、このおかしな状況に村人たちはざわついていました。
そこへ白髪をぼさぼさにした村長がやってきて、村人たちの前で説明を始めました。
「皆、こんな時間にいきなり起こされて、さぞ驚いているだろう。
いったい何事かと疑問に思っているだろうな。
心を落ち着けて聞いてくれ、緊急事態が発生したんだ。
実は、フェリノア王国が侵攻を始めたらしい。」

村長の言葉に、誰もが耳を疑いました。
本当に戦争が始まってしまったのです。
超がつくほどの大国であるフェリノアがその気になれば、マセノアのような小国は三日ともたないでしょう。
その意味を理解すると、村人たちは再び騒ぎ始めました。
「どうして俺たちが?!」

第二十六章「トステマタの番犬」【15】

「兵士の皆さん、ご苦労様。
俺は国際郵便配達人のウルテキだ。」
「配達人だと?
そんな奴が、こんな所まで何をしに来た?」
「お答えしよう。
ご存知の通り、俺の仕事は郵便物の配達と回収だ。
この塀の中には人が生活をしているな?
だったら、預かる物があるのかどうか、聞きに行かなきゃならん。
入らせてもらうぜ。」
「待て、どうして人がいる事を知っているんだ?」
「それくらいの情報は、配達人をやっていればすぐに入手できるのさ。」

出入り口と思しき扉に手を触れようとすると、ウルテキの眼前に一本の槍が出てきました。
「待たぬか。
誰が入っていいと言った?!」
「おいおい、やけに物騒だな。
こっちは丸腰だっていうのに。
あまり興奮しないで、落ち着いてくれよ。」
「何を?!」
涼しい顔をしていても、ウルテキは内心ばくばくです。
こんなときに限って、護身用の剣を馬車に置いてきてしまいました。
ただ、戦って勝てる人数ではないので、武器をちらつかせないほうが相手を刺激しなくていいとも言えなくは無いのですが。
「あんたたちは、やる事が逆だ。
国際郵便配達人は周辺十一ヶ国に認められて業務を遂行しているんだぞ。
仮にも正規兵というのなら、俺の身を守るのが当然の義務だろ、槍を向けるなんてもってのほかだ。」
「貴様こそ思い違いをしている。
たとえ国際配達人であっても、身勝手な振る舞いは許されん。」

ますます槍の穂先が近付いてきます。
「さっきも言ったはずだ、この中に人がいるのはわかってるとな。
俺は頼まれれば、野山を行く盗賊にだって手紙を届けるし、処刑間近の囚人にだって小包を渡すんだ。
この中に手紙を書いている人がいるかもしれないのだから、受け取りに行って何が悪い?!
俺の仕事を邪魔するというなら、あんたたちにはそれ相当の処罰が待ってるぞ、覚悟はできてるのか?!」
「む、しかし…」

強気な態度が吉と出たのか、兵士は少々ひるんでいます。
「まあまあ、心配しなさんな。
この状況を見れば、ここが訳ありだってのは俺にもちゃんとわかってるさ。
だから、俺がここへ入ったという事はお互い他言無用でいいじゃないか、そうだろ?
とにかく、仕事だけやらせてくれ。」

顔を見合わせた兵士たちが、ウルテキの前から槍を引きます。
そして太いかんぬきを外し、塀の大きさの割には小さめな扉を開けてくれました。
「ありがたい、恩に着るぜ。」

ウルテキが集落の中へ入ると、入り口付近には何人かが集まっていました。
    
    
兵士とは違う姿の彼に、皆が奇異の目で眺めています。
「やあ皆さん、元気そう…でもないか。
誰か俺のことを覚えておいでじゃないかな?」

人々はこれ以上ないくらいの警戒心を持って、ウルテキを遠巻きに眺めています。
何かされるのではないかと、戦々恐々の様子でした。
ウルテキの笑顔も少々こわばってしまいます。
「ああ、そうだな、うむ…えー、お集まりになった白森の村の皆様、俺は国際配達人のウルテキだ。
コルスやティティオからの手紙を届けて回ったんだ、思い出してくれ。」

それでも、色よい返事は聞こえてこないように思われました。
でも、人ごみを掻き分け、一人の男の子が彼の前へ出てきました。
顔色は良くありませんが、ウルテキをじっと見つめています。
「君は…待てよ、頭のどこかに君の記憶があるぞ…」
首をぐるぐるとひねって考えます。ウルテキの頭の中で、この少年の隣には彼よりずっと背の低い子供がいて、さらにもう一人の男の子がいました。
その男の子の隣には、白くて大きな犬がいたのです。
「わかった、君はキオ・マシュルと一緒にいた子だな!」

離れ離れになった友人の名を耳にした少年の顔に表情が戻ったように思われました。
「僕、パティンです、パティン・タラサ、キオの友達です。」
ようやく人々とのわずかな繋がりを手にして、ウルテキもほっとしました。
「パティン、会えて良かった。
急な話で悪いが、ここの責任者に会わせてくれ。
村長か、それに代わる人がいるんじゃないか?」
「ここには村長さんはいないけど、ディスマンさんがいます。
こっちです。」

パティンに案内され、入り口からどんどん奥へ向かっていきます。
ウルテキを用心深く見つめる人々は、誰もが押し黙ったままです。
ウルテキはパティンの耳元へ口を寄せ、こうつぶやきました。
「見張りの兵士に聞かれるとまずいから言えなかったんだが、この集落のすぐ近くまでキオが来ているぞ。」
「えっ、キオが?!」
「大きい声を出すな。
詳しいことは、また後で教えてやる。」

家というよりは、人が寝泊りできるだけのような、粗末な造りの小屋がずらっと建ち並んでいます。
小屋と小屋の間に走る狭い通りを奥まで進み、塀際に建っている小屋の一つへ、パティンが入っていきました。
「ディスマンさん、お客さんです。
国際配達人のウルテキさんが来てくれました。」
「配達人?
そんな人が来るのは初めてだな。」

パティンの後ろからウルテキが入ってきました。

 ― 第二十六章 完 ―

第二十六章「トステマタの番犬」【14】

「しかしよくもまあ、この森を無事に通り抜けられたもんだな。
この森には、恐ろしい番犬がいるんだぜ。」

ウルテキによれば、トステマタの森には黒い犬とそれに従う数十匹の白い犬が徒党を組んでいるそうです。
彼らはバドニア人ならすんなりと行かせてくれるのですが、他国の人間には襲いかかってくるそうです。
「そんな事、言われなくても知ってるよ。
俺たちも囲まれたんだ。」
「ほ、ほう…それはまた、災難だったな。
だけどあんたたちは無事だ。
いったい、どんな手品を使ったんだ?」
「ドクが黒い犬と戦ってくれたんだ。
それから、黒い犬と白い犬たちは何もしないで引き上げてくれたんだ。」
「黒い犬に勝ったのか?!」
「ううん、勝ち負けは付かなくて、引き分けってところかな。」

ウルテキは感心したように唸っています。
「それでも大したもんだ。
黒い犬は化け物のように強いって噂だからな。
やっぱりドクは只者じゃないぜ。」

バドニア人はその黒い犬を“森の女王”と呼んでいます。
女王というより女戦士だと、誰もが心の中で思いました。
「白森の村人がこの森を通ることができたのは、マセノア人と一緒だったからだろう。
だが、ほぼ全員が連れてこられたなんて、とんでもない話だな。」
「ウルテキ、あのような集落を他に見なかったか?」
「見たぜ。
少なくとも、あと二つはある。
同じように高い塀に囲まれたのと、崖の下の洞窟に造られたものだ。
もちろん、どちらも兵隊がびっしり見張ってるぜ。
そこに村人が収容されているのは間違いないだろうな。」

高い塀のせいで、ウルテキにも中の様子を探ることはできませんでした。
でも見れないとなると、見たくなるのが人の性というものです。
「それで三つ目の集落を見つけていよいよ我慢できなくなり、高い塀より高い場所を求めてここまで上ってきたというわけさ。
仕事?好奇心が満たされたら、続きを始めるよ。」

少し前から、キオは皆に背を向けてごそごそとしています。
「なあ、ウルテキさん、あんたも力を貸してくれないか?
俺たちだけでは手に負えんのだ。」

そう願い出たのはユドゥマコルです。
「やめてくれよ、配達人に何ができるって言うんだ?
俺はただ、あの塀の中がどうなっているのか知りたかっただけなんだぜ。
おかしな事を考えるのはやめて、政府に任せたほうがいいんじゃないか?」
    
    
マセノア正規兵のユドゥマコルと国際配達人のウルテキ、この二人を身分で比べると少しだけウルテキのほうが上なのです。
何しろ彼はフェリノアを除く十一ヶ国の認可を受けて、郵便の配達・回収業務をこなしているのですから、一国の正規兵とは違うのです。
だからウルテキが無理だといえば、ユドゥマコルは引き下がるしかないのです。
それに、興味があった塀の中身を知ってしまいました。
ですからこれ以上、あの集落に関わる理由はなさそうです。
「ウルテキさん!」
先ほどまでみんなに背を向けていたキオが振り返りました。
その手は一枚の紙を持っています。
「ちょっと待て、キオ…」
できない、とウルテキは手をひらひらと振っています。
セイグには、それが何の事だかわかりません。
「キオ、それは良くないんだ。
配達人が余り干渉しては駄目なんだ。
そういう決まりがあるんだよ。」
じっとウルテキを見つめ、キオは口を開きました。
「この手紙を、あの集落にいる人へ届けて。
誰でもいいから。」
「ああ…言っちまったか、キオ。
だけどな、ああいう所にまで立ち寄る義務は俺には無いんだぞ、それでも行けと言うのか?」
キオだけではなく、ソーヴァンにも、セイグにも、ユドゥマコルにも見つめられています。
そしてドクも彼の顔に視線を合わせていました。
「わかってるよ、ドクには大きな借りがあるからな、断れないよな。」
渋々キオから手紙を受け取り、ウルテキはため息をつきました。
「これっきりだぜ。」
そうやって引き受けはしたものの、実際あの中へ入れるのかどうかは、ウルテキにも自信が持てません。
四人と一匹に見送られ、ウルテキは森を後にしました。
    
    
崖沿いに坂道を下り、平地までやってきました。
ここから集落へは一本道です。
正面から視線を感じます。
何しろ身を隠す所も無いので、肉眼でもはっきりと兵士の顔まで確認できるのです。
ただそうなると、向こうもウルテキの姿に気付いているはずです。
「気のせいじゃないや、見てるよ…」
足取りの重いウルテキがとぼとぼと近付いてゆくにつれ、兵士たちも何事かと表情を変えていきます。
「そこで止まれ、何奴か?!」

兵士の一人が、ウルテキに怒鳴りました。
「あーっ、待った、待った。
俺は少しも怪しい奴じゃないぜ。」
両手を挙げてウルテキは答えます。

第二十六章「トステマタの番犬」【13】

「あそこまで跳んだりできない?」
―俺は鳥じゃないぞ。
「わかってるけど。でも、どうにかして僕たちが来ている事を伝えられないかな?」
―そういう事ができないように、兵隊が見張ってるんだ。
「わかってるってば。だから、そこを何とかならないかって聞いてるんだよ。」
―自分たちで考えろ。そこまで犬に頼るな。
確かに、ここまで来れたのは全てドクのおかげです。
彼は十分すぎるほどに働きました。
これからは人間たちが考えて結論を出す番です。
大人たち三人の輪の中へ、キオは首を突っ込みました。
「ねえ、これからどうするの?」
良い手立てが全く浮かんでこないのか、誰からも答えは返ってきません。
外から中へ入れそうに無いのはもちろんのこと、中から外へ出られるとも到底思えません。
かといって、ここでじっとしていても何も始まらないでしょう。
でも彼らは煮詰まったまま、何の回答も得られませんでした。
結局まんじりともせず、朝を迎えることになってしまいました。
その日も一日中、キオたちは集落の様子を監視し続けました。
見張りの兵が交替する以外、特に目立った動きはありません。
「いっそのこと、バドニア兵に化けるってのはどうだ?
向こうだってマセノア兵に変装したんだ、私たちにだってできるんじゃないのか?」

こう提案してきたのはセイグです。
でも、すぐにソーヴァンが首を横に振りました。
「その時とは違う。
マセノア兵三人に対して、相手は倍以上の人数がいたんだ。
しかも訓練を受けた手練の連中だぞ。
こっちの兵はユドゥマコル一人、どう考えたって危険すぎる。」

当事者であるユドゥマコルはその話を思い出したくないのか、下を向いています。
「それじゃあ、ずっとここで指をくわえて見てろとでも言うのか?
いったい何のために、苦労してこんな所までやってきたんだ?
こんな歯がゆい思いをするだけなら、軍が動くのを待ってれば良かったじゃないか。」
「それを言ってはおしまいだ。
元々、我々だけでは何もできない事はわかっていたはずなのだから。」
「それこそ本末転倒だ、自分たちにも何かできる事があるんじゃないかと考えて、ここへ来たのだろう?!」
「感情的になってはいけない。
ソーヴァンにだってその事は十分わかっているさ。
だが現状では、打つべき手が見つからんのだ。」

今すぐにでも家族を助けてやりたい、その気持ちだけが空回りをしています。
    
    
ここにルイルやパティンがいれば、何かいい考えが出るかもとキオは思い、肩を落とします。
その横で、ドクは腹ばいになって寝そべっていました。
体の傷が癒えたとはいっても無理を重ねているはずです。
そのドクが不意に立ち上がりました。
「どうしたの?!」

突然のドクの行動に、ソーヴァンたちも緊張します。
「まさか、また奴らが?
こんな所まで追っかけてきたのか?!」

でもキオには黒い犬が来たとは思えませんでした。
子供を連れている姿を見てしまったからです。
わざわざ森の端っこまで来るとは考えにくいのです。
この時点では誰も気付いていないのですが、ドクは特に警戒や威嚇の姿勢ではありませんでした。
ざっ、ざっと近付いてくる足音が聞こえてきます。
ところが群れではありません、一つだけです。
その音から察するに、白い犬たちのものでもないようです。
こんなに体重をかけた音ではなかったと、彼らは記憶しています。
でもソーヴァンは太い木の枝を広い、ユドゥマコルは剣の柄を握ります。
―心配いらん、ウルテキだ。
「…えっ、ウルテキさん?!」

そのすっとんきょうな声に驚かされたのはソーヴァンたちだけではなく、名前を呼ばれた本人も足を止めてしまいました。
「ばれてたのか、キオには叶わないな。」

木の陰からその姿を現したのは、紛れもなく国際郵便配達人のウルテキだったのです。
「知り合いか、キオ?!」

ソーヴァンは少々混乱しているようです。
ユドゥマコルはまだ剣から手を離すことができません。
「あれ、どこかで…?」

大人たちの中でセイグだけが、ウルテキに見覚えがあったようです。
「どうも皆さん、先ほどキオからご紹介に預かりました、国際配達人のウルテキす。」
相変わらずの軽い調子で挨拶をする彼と、警戒心を解けないままのソーヴァンたちにはかなりの温度差があり、この場が収拾するのにはしばらくの時間がかかりました。
    
    
「こいつはアバチっていうんだが、バドニア人でもこれをそのままいただく奴はいないぜ。」
あの赤黒い果物を手にして、ウルテキがそう教えてくれました。
皮をむいて天日干しにすると、酸味が和らいで食べやすくなるというのです。
バドニアの家庭料理にもよく使われるそうです。
でも、キオたちが知りたいのはそんな事ではありません。
白森の村での配達を終えたウルテキは、国境を越えてバドニアへ来ていました。
ちなみに、彼はトステマタの森を通っていません。
キオに鉄球の実をくれたロコロモと同じように、正規の経路を利用して入国したのです。

第二十六章「トステマタの番犬」【12】

体に良いのかどうかもわからぬ果実を片手に進んでいると、何となく感じるようになった事がありました。
最初にその事を口にしたのはユドゥマコルです。
「気のせいかもしれんが、木の数が少なくなってきたように思えるのだ。」
「実は私もそう考えていた。
昼間の明るさが違ってきたように感じるんだ。」
同調したのはセイグで、確かにソーヴァンも森の雰囲気が変わってきたように思っていたのです。
「俺は、その、顔に風が当たるようになったと感じていたんだ。
じとじとしていたものが無くなり、汗もあまりかかなくなった。」
「ねえ、何の話をしてるの?」
「つまり、森の端っこに近づいてきたということだ。
もうすぐここを抜けられるんじゃないだろうか、なあ、ソーヴァン?」
「そうだろうな、いや、そうでなくては困るよ。
いいかげんこの森にもうんざりしてきた所だからな。」

彼らの推測どおり、トステマタの森はその果てを見せました。
木々の間からまぶしい光が差し込んでくるのです。
マセノアからやってきた四人と一匹は、ついにこの広大な森を縦断する事ができたのです。
森を抜けるとすぐそこは崖になっていて、辺り一面を見渡すことが出来ます。
キオが初めて見るバドニアの景色は、山や河、草原や湖などの自然に溢れていました。
向こうの空には鳥の群れが飛んでいます。
「おい、あれを見ろ。」
ソーヴァンが指差したその先に、小さな集落がありました。
全員で身をかがめて、その様子を窺います。
集落を囲む木製の壁はとても高く、さらにその周りをバドニアの正規兵がぐるりと囲んでいます。
厳重な警戒の集落には、人の姿もありました。
その顔がはっきり見えるわけではありませんが、見知った人物というのは遠目でもわかるのです。
「間違いない、あれはミジムのカミさんだ…!」

白森の村の人々がそこにいました。
はやる気持ちを抑え、一旦森の中へ身を隠します。
「どうするのだ、ソーヴァン?
私はすぐにでも家族に会いたい。」
「それは俺やキオも同じだ。
だが、このままのこのこと出て行って、あの中へすんなりと入れてもらえるとは思えん。
捕まってしまうのが落ちじゃないか?」
「私は、それでも構わんよ。
それで家族に会えるのなら。」
「落ち着け、セイグ。
とにかく、一度夜まで待ってみよう。
何か動きがあるかもしれん。」
    
    
暗くなるのを待つ間、キオとドク、それにユドゥマコルはあの酸っぱい果実を求めて森の奥へ向かいました。
ようやく村人の所在を突き止める事ができました。
キオの両親や友人があの中にいるかどうかはわかりませんが、大きな前進です。
「ユドゥマコルさん、皆はあそこで何をさせられているのかな?」
「私にもわからんが、見た所、あの中では自由に動き回っているようだったな。
何をさせられているというより、普通に生活をしているのだろう。
大丈夫、きっとみんな無事でいるさ。」
赤黒い実が成っている木を見つけ、キオが器用に上っていきます。
枝に掴まりながら実をもいで、次々と下に投げ落とします。
ユドゥマコルはそれらを片っ端から拾い集めますが、ドクは一つ失敬していました。
この酸味に慣れたわけでもないのですが、他に食べる物が無いとすれば、ドクも体を震わせながらかじりつくしかありません。
袋に一杯果実を詰め込み、ソーヴァンたちの元へ戻ります。
そして歯型の付いた赤黒い果実を片手に、日が沈むのを辛抱強く待ちました。
やがて夜になり、キオたちは森から出て集落が見渡せる位置まで崖から顔を出しました。
壁の周りには、兵士と松明が交互に並んでいて、その集落だけが明るく浮き上がっています。
これではこっそりと中へお邪魔するというわけには行かないようです。
外に比べて、集落の中はずい分と暗く見えます。
キオたちのほうから見ると奥の方には家屋が建ち並んでいます。
明かりの付いた建物は一軒も無く、みんな寝静まってしまったのでしょうか。
物音を立てぬよう、そろりそろりと森の中へ。
「全ての家が真っ暗なのは、おそらく日没と共に就寝を命じられているからじゃないだろうか?」
「ふむ、そうだろうな。
それよりも気になるのは、あの中にある家の数が少なすぎやしないかという事だ。
村にある戸数の半分にも届かないぞ。」
昼間に見た限り、集落の中にある家屋は小さなものばかりのように見えました。
となると、そこへ無理やり人を押し込んだとしても、村人全員はとても入れないとセイグは言うのです。
村の人々はそのほとんどが消えてしまったというのに、あの集落にはその一部しかいないということです。
そこでユドゥマコルがこう述べました。
「よく考えてみてくれ。
そもそも村人を連れてくるというのは、現場で決められた第二案だ。
白森の村の人口までは把握していなかったとすれば、一箇所に収容できる施設を準備できなくとも仕方がない。
あくまでも推測に過ぎぬが、村人は複数の施設へ分散させられていると私は思う。」
大人たちが顔をつき合わせてひそひそと話し合う中、キオはドクと内緒話をしています。

第二十六章「トステマタの番犬」【11】

戦ったのはキオではなくてドクなのですが。
人間を一匹につき一人ずつ食べようという事でしょうか。
あのたくさんいた白い群れに分け前はないのでしょうか。
キオは余計な事までたくさん考えました。
たくさん考える事ができました。
というのも、昼間の時のような、今にも襲い掛かってくるという気配が無かったのです。
黒い犬の怖さは重々承知しているのですが、不思議と怯えはありません。
八つの目は、ただこちらを見ているだけ、そんな風に思えて仕方がありません。
    
    
その時、ようやくドクがガバッと顔を持ち上げたのです。
―いるのか?!
「…みたいだけど、大丈夫…だと思う。」
―何がだ?!

じっと眺めていて気付いた事があります。
目の高さが違うのです。
八つの目のうちの二つは高い位置に、残りの六つはそれよりずっと低い位置にあったのです。
初めは首の上げ下げで違っているのだと思いました。
すると一瞬だけ月の光が八つの目の辺りに注がれました。
そこに照らし出された姿を見て、キオは目を丸くしながらも納得しました。
あの大きな黒い犬の周りに、子犬が三匹いたのです。
子犬とはいっても黒い犬よりは小さいということで、正味ドクより一回り小さい程度でしょう。
真っ黒なのが二匹と白っぽいのが一匹、大きな黒い犬は彼らの親なのでしょうか。
「親子だよね?」
―だろうな。
「あんな強いお父さんと一緒だから、あの子達も安心しているみたいだね。」
―…あいつはメスだぞ。
「えっ?!
そ、そうなの…」
―母親だろう。
がきっていうのは母親について回るものだ。

強い母親、キオは自分の母シアのことを思い出していました。
いったん怒り出せば、父ゴルさえもたじたじです。
キオには、あの三兄弟が自分たちのように思えて仕方がありません。
ふと、黒い母犬の目が暗闇に消えてしまいました。
そして同じく、子犬たちの金色に光る目も、二つずつ消えていきます。
こちらに背を向け、行ってしまうのでしょう。
最後に残った二つの目だけが、いつまでもキオたちを見ています。
キオは軽く手を振ってみました。
地面と平行だった二つの目が、少し右に傾いたように思われます。
それからすぐに、その二つの目も見えなくなりました。
「メスなのに、お母さんなのに、群れの頭領って、すごいね。」
―ああ、とんでもない奴だ。
できれば、二度と戦いたくないものだ。
珍しくドクが弱音を吐きました。
それほどあの黒い犬がすごく強かったということなのでしょう。
それからしばらくして、ごそごそとユドゥマコルが起き出してきました。
下手に混乱させてはいけないので、黒い犬親子のことは黙っておいたほうが良いとキオは考えました。
「ご苦労さん、キオ。
交替しよう、朝まであまり間もないが、少しでも眠っておきなさい。」
「うん、ありがとう。
おやすみなさい。」
いつの間にか、ドクもまた先ほどのように眠りこけていました。
日の出が来て彼らが出発できるかどうかは、ドクの回復次第です。
やがて夜はゆっくりと明けていきます。
目を覚ましたキオは、ドクが立ち上がっていることに気が付きました。
「歩けそうなの?」
―ああ、ここでじっとしていても始まらんさ。
行ける所まで行くだけだ。
ドクの容態が気がかりなのは、ソーヴァンたちとて同じです。
しばらくは一日に進む速さも距離も抑えたほうがよさそうです。
食料の残り分も考え、彼らは木の実などを採るようにもなりました。
トステマタの森の中は、どこも変わらぬ景色が続いています。
あれから黒い犬の姿は見なくなりました。
群れの頭領であり、三匹の子犬の母親でもある彼女に、キオはもう一度会ってみたいと思うようになりました。
またドクと命がけの戦いを繰り広げられては困るのですが。
数日もすると、ドクはすっかり元通りの動きができるようになっていました。
白森の村から持って来た食料は、残り三分の一といった所でしょうか。
帰りの道のりまで含めると、このままでは全員飢えてしまいます。
この森がここまで大きいとは、誰が予想したでしょうか。
高い木の枝になっている木の実を採るため、キオは一番に働いています。
キオがもぎ取った、赤黒い皮に包まれた木の実の果肉は、黄色くてやや硬く、甘さは控えめで酸味がやたらと強いようです。
一口かじればキオの顔はくしゃくしゃになり、ドクは驚いたように吐き出してしまいました。
物知りのソーヴァンでも名前のわからない果物です。
「とにかく、この辺りで食べられる物はこれくらいしかないんだから、我慢するしかないな。
なあに、毎日食べれば自然とこの酸っぱさにも慣れるだろうさ。
まあ、慣れた頃には見るのも嫌になってるかもしれんがな。」

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