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第二十九章「ムイラン先生」【14】

日が沈み、ネーリタム市は月明かりもない真っ暗な夜を迎えました。
ヒダラムの喪に服しているため、夜でなくとも街は暗いのですが。通りを歩く人の姿もめったに見かけることはありません。
ですがムイランたちは、そんな街の一番寂しい場所へ来ていました。
「おいおい、ずい分と薄気味悪いところへ来ちまったが、ここが目的の場所だっていうのか?」
「その通り、さすがに察しがいいね。
君たちには、まずここで一働きしてもらうよ。」

傭兵たちが見上げる門の上部には看板が掲げられており、“ノダゼコ墓地”と刻まれています。
門扉は木製で、大人の胸辺りまでの高さがあります。
鍵は掛けられておらず、彼らは扉を開けてどんどん奥へと進んでいきました。
夜の墓地は人っ子一人いないどころか、物音さえ聞こえません。
馬車の車輪が回る音が、やけにうるさく感じられます。
ずらりと並ぶ墓は暗闇に白く浮き上がり、ますます不気味さを演出していました。
すると突然、ロンビが馬車を止めたのです。
「旦那、いけませんや。
ここから先は昼間しか入れませんよ。」

馬車の行く手を遮っているのは、黒い鉄製の柵でできた塀と門です。
ノダゼコ墓地の中に、さらに仕切られた場所へとやって来たのです。
今度の門扉には頑丈そうな鍵が掛けられ、人の侵入を拒んでいるようです。
ムイランの方へ振り返り、ロンビは続けました。
「わかりますでしょう、旦那。
ここはバイバール家の墓所なんですよ。
こんな時間にのこのこ入れるわけがないんです。
どうしても入りたいっていうんなら、朝になって開門するまで待つしかありませんね。」

するとムイランは馬車を下りて、次のように言いました。
「わかっていないな、ロンビは。
だったら、何のためにこんな時間にここへ来たと思うんだい?
入ってはいけない時間だからこそ、仕事がよりしやすくなるってもんじゃないか。」

ロンビは、目の前の客がまるで別人になってしまったような感覚を覚えました。
続いてキスパルが馬から飛び降ります。
「要は墓荒らしか。
医者のくせに大胆なことを企むもんだな。」

ただ、彼に反対の意志はなく、その証拠にキスパルの部下たちも次々と馬を下りていました。
老人のタムと女性のメルマが門扉の前へ向かい、何やら相談しています。
「キスパル、これなら開けられる。
壊さずに済みそうだぞ。」
「よし、とにかく急げよ。
ムイラン、どの墓を狙うのかは決まってるんだろうな?」
「ああ、場所も知っているし、問題ない。
棺を埋めたのもごく最近のことだから、掘り出しやすいはずだ。」

いよいよ人の墓を暴くことが決定的となり、ロンビは恐ろしさに固まるばかりです。
鍵穴に細い金具を差し込んでいるのはメルマで、松明で彼女の手元を照らしながらぶつぶつと指示しているのがタムです。
「違うぞ、そこじゃない。
もう少し上だ、そこに引っ掛かりがあるだろう。
そうそう…」
「わかってるよ、そこまで細かく言わなくても。」

二人の言い合いはひどくなるばかりでしたが、割とすぐに門の鍵は解かれました。
すると、いつの間にかこの場を離れていたヌージとフカリが静かに戻ってきました。
「見回りの者は誰もいないみたいだぜ。
大事なお墓のくせに、これじゃあ盗みに入ってくれと言ってるようなもんだよな。」
「こっちもだ。
この辺りにいるのは俺たちだけらしい。」
「けっこうなことだ。
メルマ、ご苦労。
お前とじいさんはここで見張りだ。」

蝶番が錆び付いているのか、思った以上に扉は重く、開いていくたびに嫌な音がします。
ムイランは再び馬車に乗り込みましたが、御者のロンビはがたがたと震えています。
「わ、私もあの中へ行かなくちゃならないのですか?」
「君は馬車を動かしてくれればそれでいい。
穴掘りはキスパルたちに任せるから。」
「いえいえ、穴掘りが嫌だとか、そんな問題ではなくて…」
「ロンビさんよぉ、ここまできたら腹を括りな。
墓荒らしをやりたくないって気持ちはわかるが、あんたをここで待たせる事も、ましてや帰らせる事も認められんぞ。
なあに、悪いようにはしないから、あんたは黙って自分の仕事をするんだ。」

キスパルの口調は高圧的でも脅している風でもないのですが、逆らうと恐ろしい結果を招くような印象を与えます。
自然、ロンビは手綱を握り、ムイランの乗る馬車をバイバール家の墓所奥まで進めることになるのでした。

第二十九章「ムイラン先生」【13】

馬車はその向きを変え、市場にある酒場まで戻りました。
店内のカウンターでムイランはまた果実酒を頼みました。
先ほどの店員は、彼の顔をしげしげと眺めています。
「僕の顔に何かついてるのかい?」
「いやいや、その、イテには会えたのかと気になってね。」
「ああ、おかげ様でね。
すぐに交渉は成立したよ。
ここで落ち合うことになってるから、待たせてもらうよ。」

それを聞くと、店員は気分が晴れたような表情になったのです。
「そうかい、それは何よりだ。
実は一つあんたに言い忘れてたんだが、イテの所まで案内するっていう、がりがりの若い男に注意しろってことなんだがね。」
「がりがりの…若い男?」

それなら会ったと言おうとしました。
「すぐに頭へ血を上らせる面倒な奴なんだ。
イテから給料をもらってるくせに、余分な金を客にせびりやがる。
そのことで文句を言われると、逆恨みしてしまうんだよ。
何人か客を短刀で刺した事もあるとかないとか…」

外見からはとても想像できませんが、それほど危険な人物だと知っていたら、道案内など頼まなかったに違いありません。
“余分な金”の件については、ムイラン自身も十分心当たりがあります。
でも、黙っていて正解でした。
もしもその事を口にしていたら、今頃ここで果実酒を飲んでいられなかったかもしれないのです。
「あ、ははは、その若い男なら確かに会ったけど、一目見て危ない奴だとぴんと来たから、口ごたえせずに金を払ったよ。
機嫌だけとっておけば、仕事はちゃんとしてくれたからね。」
「あんたは鋭いな。
それが一番利口なやり方だ。
何しろ一度暴れだしたら誰にも止められない奴だから、正規兵が飛んできたこともあるし、ちょっと心配してたんだ。」

“そういう事は、もっと早く教えてくれ”と、今にも叫び出してしまいそうでしたが、それもぐっと飲み込みました。
これから人に会うのです、気持ちを静めて果実酒を一口含みました。
    
    
「店主、ここにムイランさんって人は来てるか?」
お酒が喉のおかしな所に入り、ムイランは激しくむせてしまいました。
「ああ、この人だ。
さっきからお待ちだぜ。」

何度か咳をしている間に、その男はムイランの隣までやってきました。
口の周りに付いた酒を手で拭いながら顔を上げると、そこにいたのはムイランより二十は年上であろう男でした。
黒い髪は短く刈り込んであり、ひげもきちんと剃っているようです。
決して屈強そうな顔や体ではないのですが、使い込まれた風の鎧を見ると、勇士と言えなくもありません。
彼の名はキスパル・フォルハセオ、五人の部下を従える傭兵団の指揮官です。
同じような身長のムイランとキスパルはお互いに自己紹介を交わし、二人は握手をしました。
「選んでもらえて光栄だ。
イテさんから聞いてるかもしれんが、金さえ払ってくれれば、俺たちは何でもやる。
全ては“フォルハセオ傭兵団”に任せておいてくれ。」
「頼もしいよ。
失礼だが、あなたは正規兵だったのですか?」

キスパルの鎧は赤一色に染まっていて、それはトミア正規軍の兵士だけが着る事を許されたものだったのです。
「まあ、そんな所だ。
本当は軍を辞めた時点でこいつも手放さなくちゃいかんのだが、新しい鎧を買う余裕がなくてな。
それより、俺の部下が店の外にいるから、紹介しよう。」

店主に礼を告げ、ムイランは酒場を出ました。
するとそこには同じく鎧を身にまとった五人の兵士がいたのです。
ただ彼らのは赤い鎧ではないので、生粋の傭兵のようでした。しかし驚いたことに、そのうちの一人は女性です。
キスパルは向かって右端にいる兵士を指差しました。
「そっちの縦にも横にもでかいのがセンヴァ、白髪のじいさんがタム、茶色い顔をしてるのがヌージ、出っ歯のフカリ、そして紅一点のメルマだ。
これが俺たちフォルハセオ傭兵団さ。
よろしくな、先生。」
「ああ、よろしく…って、せ、先生だって?!
どうしてわかったんだ?」
「そんなに大げさな話じゃないよ。
俺は人の何倍も鼻が利くんだ。
あんたからは薬や消毒液の臭いがかすかにしてる。
体に染み付いてるって感じだ。
そんな職業は限られてるし、個人で傭兵を雇えるなんて、医者ぐらいじゃないか?
どうだい、俺の推理は?」
「びっくりしたよ、そんな風にぴたりと言い当てられるなんて思いもしなかった。」

キスパルは得意げな笑みを浮かべています。
それからムイランは御者のロンビを傭兵たちに紹介しました。
そしてすぐにムイランは馬車に乗り込み、キスパルたちは一頭ずつ馬にまたがります。
「それで、これからどちらへ、先生?」
「先生というのはよしてくれ。
私の事はムイランでいい。
君たちはこの馬車の後ろからついてきてくれ。
目的地へ着く頃には、ちょうどいい時間になってるはずだ。」

真っ赤に染まっているの夕日へ向かって馬車は進み、キスパルたちの馬もそれに続きます。

第二十九章「ムイラン先生」【12】

「こんにちは、イテさん。
お客を連れてきたぜ。」

ろうそく一本の明かりに照らし出されたイテは、机を前に座っています。
男性の割に髪は長く、背中まで伸びているものと思われました。
その毛髪は色を失い、顔にはくっきりとしたしわが何本も刻まれていて、彼が老人であることを示しています。
しかし、その表情の厳しさゆえに、どことなく年齢を感じさせないものがありました。
「そんな所に立っていないで、座りなさい。」

あまり動いていない口から出てきたその声はとても低く、この薄暗い雰囲気をさらに怖いものにしていました。
若い男が形の違う三脚の椅子の中から一つを選び、ムイランの近くへ持ってきてくれました。
彼が腰を下ろすと、イテの顔が真正面にありました。
「明るいのが苦手でね、少々見にくいかもしれんが、我慢してくれよ。」
「ああ、いえ…構いませんよ。」
「私はムイラン、“高望みの毛虫”という酒場であなたの名前を教えてもらいました。」
「ふん、奴か。
俺に借金があるから、すぐに客を回してくるんだ。」

イテの瞳を見たとき、病気か何かで悪くしているのだとムイランにはわかりました。
そのため他の人には何でもない日の光も、彼にとっては眩しすぎるのだと思われました。
「用件を言ってくれ。」
「失礼、人を数人雇いたいのです。
できれば四、五人。
力仕事を頼みたい、穴掘りをして欲しいんだ。
それに、厄介な事情が絡んでくるから、度胸があって口の堅い人物が望ましい。」

イテはじっと考え込みました。
色々と要望を付け加えすぎたのだろうかとムイランは焦りました。
するとイテは机の上にあった木箱から書類の束を取り出しました。
部屋は暗いしムイランからは逆さまでしたが、文字がびっしりと記されたその紙には人の名前も載っている事がわかります。
端の部分は傷んでいいて、少々古い書類のようでした。
イテはその紙の上で右手の人差し指をつつと走らせ、文字をなぞっています。
上から下までかなりの速さでなぞり終え、一番上の紙を木箱に戻しました。
それから次の紙を指で読み始めます。
二枚目の真ん中辺りに差し掛かった頃、イテの指がぴたりと止まりました。
「おお、やっぱりな。
ちょうどいいのがおるぞ、お客人。
人数は六人になるが、いつも一緒に行動しているから結束力が硬く、扱いやすいはずだ。
しばらく仕事にあぶれていたから、多少の厄介ごとでも引き受けるだろう。
こういう世界にも暗黙の掟があって、客の秘密はちゃんと守るさ。
口止め料さえ払ってやれば、奴らの口には自然と鍵が掛かるというものだ。」
「わかりました、お願いします。
それで、彼らにはすぐ会えますか?」
「いいとも。
“高望みの毛虫”で待ってな。
あんたを訪ねて行かせるよ。
責任者はキスパルという男だ。」

酒場の店員が言ったとおり、仲介料は確かにふっかけられました。
普通に人を雇うより、その三倍の額を要求されたのです。
それでもムイランには普通に人を雇えない理由があるので、黙って支払う事にしました。
    
    
イテの家から外へ出た所で、さっきの若い男が待っていました。
律儀なことに、馬車へ戻る道も案内してくれるようです。
来た時と同じように狭い民家の間を通ります。
「君はいつもこの仕事をしているのかい?」
「ああ、そうさ。
イテさんを尋ねてくる人は毎日いるからね。
あの人は酒で目と両脚をやっちまったから、あんな暗い家の中で座りっぱなしなんだ。
夜もあのまま眠るらしいぜ。
だから俺のことは重宝してると思うよ。
辞めてほしくないんだろうな、まじめに仕事をしてる奴の倍は給料をくれるぜ。」

嬉しそうに声を弾ませて、若い男はそう語りました。
ただそれは、ムイランにはちょっと引っかかりました。
元からイテに雇われてやっている仕事なら、最初にお金を払う必要はなかったように思われます。
「ま、よしとするか…」
総体的に見て、ここまでは至極順調です。
些細な事でこの若い男と揉めるのは時間の無駄だとムイランは考えました。
入り組んだ道を戻り、馬車が待つ所までやってきました。
そこでは安堵した表情のロンビが出迎えてくれました。
「ご無事で良かった、旦那。
ここで待ってる間、私はずっと後悔してたんですよ。
こんな所で一人いらいらしてるのなら、どうして旦那についていかなかったんだってね。
そりゃあ、馬車を盗まれても平気かといったら嘘になりますけど。
だけど、もしも旦那に何かあったら、私の責任にもなります。
御者という仕事に誇りを持っているだけに、それだけはあってはならない事なんです。
どうですか、怖い目には遭わされませんでしたか?」

まくし立てるロンビに、ムイランは懐から取り出した短刀を手渡しました。
「これは返すよ、ありがとう。
全然危険なことなんてなかったし、イテはすぐに人を紹介してくれたよ。
次はもう一度、“高望みの毛虫”へ向かってくれ。」

第二十九章「ムイラン先生」【11】

ロンビの待つ馬車に乗り込み、行き先を告げましたが、彼は首を傾げています。
「すいませんがね、旦那。
私はこの街のことはあまり詳しくないんで、大通りじゃないとわからないんですよ。
おそらく裏通りなんでしょうが、どの辺なんです?」
「私にもわからないよ。
困ったな、これだけ広い街だから、通りなんていくらでもあるだろうし。」
それならもう一度酒場へ戻って訪ねればいいだけのことですが、どうも格好悪く思えてムイランにはできませんでした。
大通りでない事はロンビのおかげでわかりました。
後は往来ですれ違う人に尋ねながら、カブロブ通りを探しました。
目的の場所が徐々に近付いてくると、あれだけ多かった人の姿が見えなくなってきました。
居並ぶ建物も古めかしい感じのものが多くなり、ムイランは自分が住んでいる家の周辺を思い出しました。
御者のロンビはここで初老の女性に話を聞いています。
「旦那、ここがカブロブ通りに間違いないようですよ。
ただ、今のばあさんはイテって奴のことは知らないそうで。
どうしますか、一軒ずつ当たりますか?」

酒場の店員は“ふっかけてくる”と言っていたので、堂々と店を構えている訳ではないのかもしれないとムイランは考えました。
この細い通りの、さらに裏手で営まれているのでしょう。
となると、本当に一軒一軒聞いて回らなければイテには会えないのかもしれません。
その間にも、ロンビは行き交う人にイテのことを尋ねています。
しかし一軒ずつというのは、効率的でも現実的でもないように思われました。
このカブロブ通りがどこまで続いているのか、想像するだけで気が遠くなりそうです。
すると、馬車の横窓をこんこんと指で叩いてくる影がありました。
ムイランからは人の手だけが見えています。
窓を開けると、やせ細った若い男がぎらぎらした目で彼を見上げていました。
「どんな用だね?」
「あんた、イテさんを探してるんだろ、教えてやってもいいぜ?」
ロンビもその男の存在に気付き、振り返りながら睨みつけています。
ムイランは即座にその真意を感じ取り、窓から手を出し、銅貨一枚を若い男に渡しました。
銅貨をもぎ取るように受け取った男は、ロンビの元まで行って何やら話を始めます。
今度はムイランの方へ振り返ったロンビに対し、彼は小さく頷いて見せました。
若い男が歩き出します。男の目の下にはくまができていて、どうにも危なっかしく思えました。
ロンビはそれに合わせて馬車を進めます。
どうやら若い男は道案内をしてくれるようでした。
辺りはますます裏びれて来て、寂しいというよりは怖ささえ覚えます。
こんな客の来ないような所で仲介業をしているイテとは何者だろうと、ムイランもいささか緊張気味でした。
    
    
すると馬車が止まり、若い男が窓の方へ戻ってきました。
「ここからは馬車じゃ行けないんだ、歩きになるぜ。」

言われるままにムイランは馬車から下りました。
どうやらこの先は通りから外れ、建ち並ぶ民家の間にある狭い隙間を抜けていくようです。
日の光が届かぬそこは真っ暗で、得体の知れないものを感じます。
しかもロンビは馬車から離れられず、ムイランは一人で行かねばならないのです。
「旦那、ちょっと待ってください。」
ロンビに呼び止められ、その方へ近付きます。
「気休めかもしれないが、念のためにこれを。」

そう言って彼から手渡されたのは、一本の短刀でした。
鞘も柄も傷だらけでしたが、ずっしりとした重みを感じます。
いったいこれで何を斬ってきたのか。
それをムイランはこっそりと懐にしまいました。
「ありがとう、ロンビ。
心強いよ。」
「どうかご無事で。」

若い男とムイランは民家の隙間へと吸い込まれていきました。
前を進む若い男はするすると慣れた感じです。
あの細い体はこの隙間を自在に移動するためなのかもしれません。
一方のムイランはそうもいかず、歩くたびに服をどこかへ引っ掛けたり、何かの出っ張りに手足をぶつけてしまいます。
滴る汗を拭おうにも、民家の壁が邪魔で手を上げることすらできません。
一旦細い路地へ抜け出て息をついたのもつかの間、若い男は再び民家の隙間へと消えていきました。
そんな事を繰り返し、密集した民家の隙間をどんどん奥へ突き進んでいきます。
ぐねぐねと迷路のように右へ左へ曲がっているうちに、ムイランはここがどこだかわからなくなってしまいました。
「お疲れさん、着いたぜ。」

何度目かの路地へ出た時、一軒の民家を前にした若い男が立ち止まりました。
ムイランが見上げる、そのくすんだ青い屋根の家は、隣や向かいの家と比べても特別目立ったところはありません。
看板も出ていないところを見ると、やはり人知れず商売を行っているようです。
立ち尽くすムイランを急かすように、若い男はおもむろに玄関の扉を開けました。
「入りなよ。」

手招きされて、ムイランもおずおずとその後へ続きます。
この家には窓が無いのか、玄関の扉を閉めるとほぼ真っ暗です。
視線の先にぼんやりと明かりが浮かんでいて、二人はそこへ向かっていきました。

第二十九章「ムイラン先生」【10】

自腹で揃えた薬の一式や聴診器、手術で使うような小刀や鋏、手の平ほどの医学書などをこれも鞄に詰め込めるだけ詰め込むのです。
鞄自体は小さくても、かなりの重量になりそうでした。
最後に、彼はぼろぼろになっている机の引き出しを開けて、そこから缶の箱を引っ張り出しました。
そのふたを開けると、箱の中には金貨や銀貨、銅貨がどっさりと現れました。
もちろんこれはまっとうなお金です。
少ない給料でやりくりしながら、こつこつと貯めてきた虎の子の財産なのです。
将来は自分の病院を持ちたいという目標が彼にはあって、これはそのための資金とするつもりでした。
そのお金をじっと眺めたムイランは、箱のふたをきっちりと閉め、ふたが開いてしまわないように紐でぐるぐる巻きにし、もう一つ別の手提げ鞄に入れました。
それから大通りへ走って御者を呼び戻し、家の中から大きな鞄一つと小さな鞄二つを、二人がかりで馬車まで運んだのです。
御者はひいふうと息を吐いています。
「いやあ、すごい荷物ですね。
これから旅行ですかい、旦那?
豪勢なことで、うらやましい。」
「あなたに頼みがある。
私はリーガスまで行きたいんだ。」
「リーガスですか、そりゃまた遠いですな。」
「できればあなたに頼みたいが、それが無理なら信頼できる同業者を紹介して欲しい。
お金ならあるから、心配しないでもらいたい。」

御者はしばし悩んだようでしたが、やがてにんまりと笑みを返し、ムイランの依頼を引き受けました。
「長旅になる。
すぐには帰ってこられないが、よいのだね?」
「昔っから一人身です、気兼ねは要りません。」
「ありがたい、私はムイラン・テリシコだ。」
「ロンビです。よろしく、旦那。」

がっちりと握手を交わす二人です。
そこからすぐに出発となりましたが、リーガスへ向かう途中でネーリタム市へ寄ってくれとムイランは言いました。
「あそこは今、やたらと辛気臭いってもっぱらの噂ですよ。
止めやしませんけど、そんな所で観光ですかい?」
「この旅行は遊びではないんだ。
考えがまとまったらあなたにも事情を話すよ。
とにかくそこへ向かってくれ。」
    
    
決して観光をするつもりもないし、辛気臭い理由もわかっています。
長い喪が明け切らぬネーリタム市は、肩を落とす市民の姿が多く見受けられました。
それがヒダラム王子の死を悲しんでいるという事は、ムイランにも嫌というほどわかっているのです。
「旦那、これからどちらへ?」
「そうだな、酒場を探してくれ。」
「それがいいですよ、旦那。こんな暗い街じゃ、呑むぐらいしか楽しみがありませんからね。」
さほど時間もかからず、市場の片隅でひっそりと“高望みの毛虫”という看板を出している酒場を見つけることができました。
昼間から酒を飲んでいる客は少なくありませんが、ここもやはり明るい雰囲気とは程遠いものがありました。
カウンターに向かったムイランは、コップを拭いている店員に話しかけました。
「果実酒を頼む。
あまり甘くないやつがいいんだが。」
店員はムイランに目を向けることなく、コップに酒を注いで彼の目の前に置きました。
コップからは柑橘系の香りが漂います。ムイランもカウンターの上にお金をそっと並べました。
「ちょっと多いぞ。
そんなに高い酒じゃないよ。」
「聞きたいことがあるんだ。」
「俺はあまり人と話しをする気分じゃないんだがね。」
酒場の店員としては褒められない発言ですが、それもこれもこの街の現状を考えれば致し方ないというところでしょうか。
「すまないな。
だけど私も必要に迫られていてね。
ぜひ教えてもらいたいんだ。」
「何の話だ?」
「人を数人雇いたいのだ。」
「力仕事か?
だったら、こんな所じゃなくて政府の出張所が近くにあるから、そっちへ行きなよ。」
「ああ、力仕事もしてもらわなくちゃならない。
ただね、大きな声じゃ言えないんだが、少々物騒な事になるかもしれないから、そっちには行きたくないんだ。」
すると店員はムイランに初めて視線を投げかけました。
何か言いたげでしたが、その気力もないようです。
「だったら、カブロブ通りに済んでるイテって男を訪ねなよ。
多少ふっかけてくるが、あんたの希望に合った人間を集めてくれるはずだ。
この店の名を言えば、話も通りやすくなるだろう。」
コップの果実酒を飲み干し、ムイランは手で口を拭いました。
「カブロブ通りのイテだね、ありがとう。」

第二十九章「ムイラン先生」【9】

頭や目、足腰にいたるまで疲れを感じながら開いた二十五冊目、ムイランはそこではっと意識を取り戻しました。
「これだ…」

彼はついに見つけました。
本棚の前で立ち尽くすムイランは、胸の鼓動が早くなるのを感じていました。
目的の頁を探そうとしますが、焦って上手くいきません。
「わかっている、わかっているぞ。
落ち着けばいいんだ。」

その症例集を脇に抱え、辺りをきょろきょろとうかがいます、誰もいるわけではないのに。
棚の前にある机に本を置き、自らは椅子に座り直します。
そして呼吸を整えながら、ゆっくりと一枚ずつめくっていくのです。
指の震えが収まりません。
でもしばらくすると、彼の手がぴたりと止まりました。
もちろん、そこがヨラーテ記念病院の資料室にあった複製本には欠落していた箇所なのです。
彼の体は微動だにせず、見開かれた目はまん丸なままでした。
「何ということだ…」

叫び出したい衝動に駆られましたが、ここは図書館なので騒いではいけません。
口を左手でしっかりと押さえながら、高々と歓喜の右手を突き上げました。
硬く握られた拳は、天井に届けといわんばかりです。
静寂の中で喜びを噛み締めたあと、彼は再び辺りを気にする素振りを見せました。
当然のように、そこには誰もいないのですが。
自分はこんな大発見をしたというのに、彼を気にかける者は皆無なのです。
それはそれで寂しいのですが、今の彼にとっては好都合なのでした。
次の瞬間、彼はその頁をそろりそろりと破り始めました。
静かな館内に響いてしまわないように、慎重かつ大胆に攻めます。
そしてとうとう、彼は資料室の本からも失われていた箇所を二枚、破りとってしまったのです。
それを慌てて上着の懐に突っ込んだ彼の顔は、血管が破裂してしまったかのように真っ赤になっていました。
いくらトミアで一番の大きさを誇る病院に勤める医師だとしても、図書館の本を破ってしまうなど許してもらえる事ではありません。
彼自身、こんな行為に及んだのはこれが初めてです。後ろめたくて仕方がありません。
急いで他の本を棚に納め、足早にその場を後にしました。
ただ別の場所では、まだ学生たちが医学書を読みふけっています。
彼らと目を合わせないように俯き加減で歩きますが、学生たちは学生たちで他人の行動に興味は無いようで、本来なら不審に思えるムイランの様子を気に留めることもありませんでした。
    
    
待たせておいた馬車に乗り込み、すっかり寝入っている御者を叩き起こしました。
「早く出してくれ、とにかくここから離れるんだ。」
「はいはい、少々お待ちを。」

大あくびをしながら御者が手綱を握ると、馬車はゆっくりと動き始めます。
「どうしてこの馬はこんなに遅いんだ?
鞭をくれてやればいいじゃないか!」
「違うんですよ、イコラの中では人が多いから、あまり早く走らせられないんです。
違反すると兵隊に捕まってしまうんで。
お許しを、へへへ。」

後ろの小窓から様子を窺いますが、特に本を破いた犯人を追ってくる者の影はありません。
「わかったよ。
とにかく、できるだけ急いでマダフバルのヨラーテ記念病院まで行ってくれ。」
「へい、お任せを。」

何だか一人で緊張していたのが馬鹿らしく感じられ、彼は背もたれに深く体を預けました。
そして懐から症例集の一部を取り出し、静かにそれを眺めるのでした。
それを探し出したことには喜びました。
でもこれからどうすべきか、馬車に揺られつつ、じっと考えます。
しばらくの後、彼はおもむろに体を乗り出し、御者に指示しました。
「行き先を変更だ。
直接私の家まで向かってくれ。」

ヨラーテ記念病院から西へ少し離れた住宅街に、彼の家がありました。
細い通りを向かい合うように、小さな家がひしめき合って並んでいます。
その中の一軒に、彼が一人暮らしをする住処があります。
彼の古い家は屋根に穴が開いているようで、天井には雨漏りによってできた染みが二つ滲んでいました。
ちなみにここは彼の持ち家ではなく、賃貸です。
現在彼ががもらっている給料では、この程度の家賃を払うのが精一杯なのです。
家具は大して置いておらず、殺風景といえなくもありません。
一旦そこまでの賃金を御者に渡し、この先の広い通りで待っていてくれと頼みました。
家へと戻ってきたムイランは、物置の中からほこりを被った大きな鞄を取り出します。
そこへ自分の服や下着を片っ端から詰め込み始めました。
決して新しいものや立派なものはありませんが、これからの事を考えると一着でも多く持っていきたいと考えているようです。
おかげでぱんぱんに膨らんだ鞄は一回り大きくなっていました。
続いて彼は小さな革製の鞄を手に取りました。
ネーリタムへ行った時にも使った、茶色い鞄です。
これは長い紐がついていて、肩から掛けることができます。
それには自分の商売道具を入れています。

第二十九章「ムイラン先生」【8】

確かに、この事ばかりにかまけてもいられません。
ムイランは資料室に戻ってくると、机に並べられている図鑑や症例集を片付け始めました。
ところがその途中、ムイランはふと手を止めました。
机の上に
見慣れぬ表紙の症例集が乗っていたのです。
「これは、どこの…リーガス?」
刊行は最近のものではないようですが、あまり人の手に触れていないらしく表紙は新品のように見えます。
それにはリーガス国で発見された病気や治療法の一部を抜粋したものが載せられていました。
医療技術としてはトミアの方が一歩も二歩も進んでいるので、ムイラン自身は参考にするつもりなどなかったのです。
他国の症例集はトミアのそれとは別の場所に保管されているはずなので、誰かが間違えてトミアの棚に戻し、それをムイランが気付かずに持ってきてしまったのでしょう。
「いったい誰が、こんなものを使ったんだか…」

ムイランは苦笑しています。
仕方なく、それを正しい場所へ持って行こうとしました。
でも、なぜだか気になります。
ムイランは表紙を開き、内容に目を通し始めました。
すると、一枚か二枚、中身が破り取られていたのです。
何が書いてあったのか、とても気になりました。とても大きな空白のように感じられるのです。
気にするほどではないと自分でわかっていたのに、どうしても破られた箇所を見たくなってしまいました。
    
 その翌日、彼は本当に休暇をとりました。
彼は御者を雇い、馬車に乗って副都イコラ市を目指します。
目的は南東管区にある大図書館です。
蔵書の数は数万を超える、まさにトミアで最も大きな図書館なのです。
そこにはリーガス国症例集の原本があるはずです。
どうしてそこまで、とムイランは自分でもおかしくなってしまいました。
この時にはまだ、自分の好奇心を満たすための休暇だとしか考えていなかったに違いありません。
ムイランの乗った馬車はイコラに入り、街の南東へ向かいます。
大戦後、周辺十一カ国で最も早く復興し、最も大きく繁栄したのがこの街だと言われています。
トミアで一番の被害を出したイコラ=ガデリーの戦いで、イコラ市は跡形もなく焼き尽くされたのです。
ムイランも子供の頃、十七年戦争の歴史を勉強する時は、まずこの戦いから覚えさせられたものです。
戦争が終わり、政府はこの街を完全に甦らせた時こそがトミアの復興が成し得た時だと、その全精力を注ぎ込んだのです。
復興と繁栄の象徴となるべく建設が開始された新しい城は、その完成の後、現在のディマル
ザ・ワイゼイに替わって新しい本城となる予定です。
まだまだ地盤を固めている程度の進み具合である現場は、人工の小高い丘となっています。
ムイランが生きている間に、その丘から街を見下ろす新本城が完成するかどうかは、まだ何のめども立っていないようです。
それとは別に、南東管区へやってきたムイランの目には、これもまた印象的な建物が目に入ってきました。
黒一色に塗られた壁が特徴の大図書館は、大勢の利用者で溢れていました。
大人から子供まで性別を問わず、みな本を片手に歩き回ったり、机の前で読書にふけっています。
医学書が並ぶ棚の辺りには若者の姿が多く見られますが、きっと試験を控えた学生たちでしょう。
かつてムイラン自身も医師免許取得試験の前日まで、この大図書館に篭っていた記憶があります。
ここにいる学生たちの中には、ヨラーテ記念病院で働くことを志す者もいるはずだと思うと、胸の奥にしまいこんでいた初々しい希望の魂がよみがえってくるようです。
彼は異国の症例集が収められている棚の前まで来ましたが、ここには人の姿はあまり見られません。
場所も隅のほうにあり、空気も入れ替わっていないようにどんよりとしています。
やはり参考にする必要はないという考えは同じのようです。
でもこれなら学生たちに邪魔されることなく、ゆっくりと目的の本を探すことができるというものです。
ヨラーテの資料室とは違い、たとえ異国の症例集であっても、その数は膨大です。
本を実際に開いてみなければ、資料室にあったものと同じかどうかの判別はつかないようになっています。
「さて、今日中に終わるだろうか?」
思った以上に面倒な事となりましたが、今さら止めるわけにもいきません。
ここにあるリーガス国の症例集を全て見る覚悟を決め、その一冊目を手に取りました。
元来図書館というのは静かなものですが、ほかに人のいないこの場所は、まるでムイランが貸し切っているようでした。
彼が頁をめくる音が時々聞こえてくるだけです。
上手くいけばすぐにでも見つかるはずでしたが。
どうにも幸運とは程遠いらしく、ムイランは今二十四冊目に取り掛かっていました。
少しめくって目を通し、違うと呟いてはばちんと本を閉じました。
その本を棚に戻したとき、彼は今日初めてのため息をつきました。
なぜなら、それがちょうど半分だったからです。
リーガス国の症例集は、残りも二十四冊です。
この中に求めているものが必ずあるはずですから、反対側の端から調べていれば、とっくにたどり着いていたはずです。
それが残念でなりません。
ただ言い方を変えれば、あと二十四冊を調べるだけで目指すものがきっと見つかるのです。

第二十九章「ムイラン先生」【7】

深呼吸をするユトープを真似て背筋を伸ばすと、資料室のよどんだ空気に汚染された体がすっかり軽くなったように感じ、ムイランも思わず笑顔になりました。
「どうだい、この清々しさは?
そこらの薬じゃ、こんな気分にはなれないよな。」
「ああ、今まで悩んでいたのが嘘のようだよ。
要は気の持ちようという訳か。
薬を使わず患者を治す、さすがはユトープ先生だ。」
「“極力使わず”だよ、ムイラン。」

ムイランはもう一度、さわやかな空気を体内へ取り入れました。
「これは、あくまでも推測の域を出ない話だ。
何しろ、当のヒダラムからは何の証拠も出なかったんだから。
笑わずに聞いてくれるかい?」
「もちろんさ、何でも話してみなよ。」
「ネーリタム市で彼の衰え果てた体を診察した時、まず頭に浮かんだ事がある。
理由は、ヒダラムが体調の不良を訴えてからほんの数日で、そんな体になってしまった事だ。
僕の報告書を見ただろう?」
「ああ、確かに。
健康であった外見からの変化が急激すぎる。
普通では考えられない。
それで、君の推測とは何だ?」
「毒だ。」
「しかし、君の報告書ではそれは初めに違うと書いてあったはずだが?」
「その通り、ヒダラムの血液からは何も検出されなかった。
だが、それでも私はあれを毒の仕業だという考えを捨てられないんだ。」
「実際に王子を診察をした君がそういうのだから、あながち推測だけと言うわけでもなかろうが、もしも君が考えるとおりなら、事態はややこしくなってくるぞ。
例えば、その毒はどうやって王子の体内へ入ったのか?
偶然か、それとも故意か。何しろ相手は王位継承権を持つ御方だ、うかつな事は口にできないぞ。」
「それはわかっているさ、君が心配してくれている事もね。
だけど、今はそれ以前の問題なんだ。
何の確証も無い、単なる僕の想像に過ぎない。
いくら僕一人が騒ぎ立てたところで、それでは誰も耳を貸してくれはしないよ。」
「君らしくもない、自信を持てないのか?」
「ああ、正直な所、全く無いね。
君も知っての通り、ネーリタムから帰ってからの僕は毎日資料室にこもっているが、手がかりらしいものすら見つからないんだ。」
    
    
「それなら少し休んだらどうだ?
君は心身ともに疲れているんだよ。それには休息が一番さ。
ヒダラムの事は忘れて、ゆっくりしたほうがいい。」
「そうかもしれないな。」
新鮮な空気を吸い込んだものの、ムイランの頭にはわだかまりが残りました。
「旅行にでも行ってみたらどうだ?」
話題を変えるように、ユトープが提案しました。
「なるほど、旅行か。
そういえば、ここ数年旅行なんて全くしてないな。
この街を出るといえば、要請されて診察に赴くときだけだよ。
学生の時は勉強ばかりしていたから、トミアを出たことすらないんだ。
おかしいよな?」
「医者を目指す人間なんて、皆そんなものだよ。
遊んでる余裕なんて無いのさ。」
「でも、君の実家は医者の家系だろ?
おじい様もお父上も医者だったんだから、裕福だったはずだ。
どこへでも連れて行ってもらえただろうに。」
「小さい頃に一度だけリグ・バーグへ行ったことがあるけど、それだけさ。
それに医者といっても、祖父は別の国で働いていたし、父さんは町医者だ。
トミアでの格でいえば、中の下くらいだよ。
そのくせ、子供に過度な期待ばかり押し付ける。
君の方がうらやましいよ。」
ユトープの声が沈んでしまったので、ムイランは余計な事を言ってしまったのかと思いました。
ムイランの父親は、食品加工の工場で働く、医学とは無縁の人間でした。
息子が医者になりたいという目標を持った時、賛成こそしなかったものの、ムイランの父は彼の学費を捻出してくれたのです。
そのために方々から借りたお金は、まだ返しきれていません。
でも、そうまでして息子を応援してくれる家族がいることを、ユトープは心底うらやましいと思ったものです。
「ユトープ、君のお父上は、ちゃんと君の将来を考えて、医者の道を勧めてくれたはずだよ。」
「ああ、いいんだよ、僕のことは。」
屋上からの帰り際、ユトープはこう言ってムイランの前から去っていきます。
「旅行はともかく、君の患者はヒダラムだけではないって事を忘れないほうがいい。」

第二十九章「ムイラン先生」【6】

それを知ってか知らずか、寝室のヒダラムは、懸命に笑顔を作ってムイランを迎えてくれました。
“もう笑わないでくれ”と心の中で願いました。
助ける事ができない後ろめたさが、患者の気遣いさえ拒絶しようとしていたのです。
それでも形式上、ムイランは聴診器を取り出して王子の胸に当てました。
心臓の音が弱々しく聞こえます。
拍子も一定ではなく、時に遅くなって今にも止まってしまいそうに感じられます。
その音を今となっては何となく聴いているだけのムイランに対し、ヒダラムは次のように話し始めました。
「僕とムイラン先生が初めてお会いした時、僕の隣にはハシャルフ・コースタットがいた事を覚えていますか?」
聴診器をヒダラムの胸から離したムイランは、静かに頷きました。
「ハシャルフ王子も、私が担当した方の中では印象深い存在でいらっしゃいました。
見るからに線が細く、声も小さい。
明日にでも大病を患ってしまうんじゃなかろうかと、診察するまでは思っていました。
ですが中身はヒダラム王子と同じ位に丈夫でおられました。」
「僕が心を許せる、数少ない友人の一人です。
幼い頃はいつも一緒に遊んでいました。
でも、最近は全く会えなくて、寂しさも感じていたんです。
こんな風になってしまうとわかっていたら、元気なうちに無理やりにでも彼の元へ押しかければよかったと後悔しています。」
「今からでも良いではありませぬか。
早速、ハシャルフ王子の元へ使いをやらせましょう。
きっと飛んで来てくれますよ。」

すると急にヒダラムは不安げな表情となりました。
「彼は僕のこんな姿を見て、何と思うのだろう。
がっかりしてしまうんじゃないだろうか?」
「病気の友人を見てがっかりする者などおりませぬ。
すぐに良くなるようにと、神様に祈りを捧げてくださることでしょう。」

その時、寝室に入ってきたのはムトでした。
こちらも顔色は良くありませんが、幾分は持ち直したようです。
「王子にお客様がおいでです。
ムイラン先生は席を外してくださいますよう。」
「わかりました。
私は自分の部屋へ戻っていますので、何かありましたらお呼びください。」
「ムト、いったい誰なんだい?
僕はあまり人には会いたくないのに…」

二人の会話を最後まで聞くことなく、ムイランは早々に寝室を立ち去りました。
後日ムイランが知ったのは、このときの客人というのが、かのハシャルフ・コースタットだったという事実です。
ただ、彼もまた王位継承権を有する身分でありながら、なぜか突然ヒダラムを尋ねてきたようです。
その理由は、誰も知る由がありませんでした。
そして恐らくはその面会がヒダラムに少しだけ力を与えたのでしょう、それから二十三日間、彼は生き長らえたのです。
    
    
その最期までヒダラムに付き添ったムイラン・テリシコは、激しい疲労感と堪えがたい無気力感にさいなまれながら、マダフバル市へ戻ってきました。
ヨラーテ記念病院で元の生活を再開させたヒダラムですが、彼の頭からはヒダラムのことがこびりついて片時も離れません。
厳密に言うとヒダラムというよりは、彼の病気について、忘れることができないのです。
結局原因の究明がなされぬまま、ヒダラムの遺体は棺に納められ、地中深くへ埋葬されたのです。
ムトはムイランにその労をねぎらいましたが、それで踏ん切りがつくものではありません。
彼は医師として一日の業務を終えると、毎日のように資料室へ入り浸っては医学書や症例集を紐解くようになったのです。
それから十数日が経過した現在も、彼は分厚い本とにらめっこをしているというわけです。
ヒダラムを死に追いやった病の正体をはっきりさせなければ、ムイランが心に負った傷を癒すことはできないのかもしれません。
ネーリタムにいた頃から彼の頭の中では、一度は否定されたものの、きれに拭い去ることはできない仮説が残されていました。
それを裏付ける過去の事例が、このトミア医学の歴史そのものといえる資料室のどこに埋もれているのやら、ムイランは気の遠くなるような思いでした。
「やっぱり、まだやっていたのか。
そろそろ、諦めたらどうだい?」

本棚の影から姿を現し、悩む彼に声をかけてきたのは、同僚の医師ユトープでした。
この病院での一年先輩である彼は、ムイランにとって唯一仕事について相談できる相手なのです。
その事をユトープ自身もわかっているからこそ、引き際を見失っているらしき後輩に、そのきっかけを与えてやろうとしていました。
自分の席の隣に立つユトープを、ムイランは何か言いたげに見上げていました。
「ムイラン、君を手伝ってやる余裕は僕にも無いけど、話ぐらいなら聞いてやれるぞ?」
「いいんだ、話せばあなたに迷惑をかけるかもしれないから。」

普段は見られないムイランの殊勝ぶりに、思わずユトープの口元がほころびました。
「遠慮せずに話せよ。
そうやって一人で抱え込むから、余計に煮詰まってしまうんだ。
とにかく、ここでは息も詰まる。
一度、外へ出ようじゃないか。」
資料室を出ると、廊下の突き当りにはもう一つ上へ向かう階段があり、それは屋上へと続いています。
渋るムイランを強引に連れ出し、ユトープは白い雲が点々と浮かぶ青空の元までやってきました。
湿度を感じさせないのは、強すぎない風が吹いているからです。

第二十九章「ムイラン先生」【5】

そこでムイランは改めてムトに指示を出します。
人を使い、王子が立ち寄った場所で変った事が無いかどうかを探ってもらうように頼みました。
元々ムトはネーリタム市内に、ヨゼキという者を始めとする密偵を放っていました。
聞き込みはすぐに始められ、情報も多く集まるだろうとムトは太鼓判を押します。
そしてムイラン自身がすべきことは、病の中心部を見つけ出すことです。
ヒダラムの体内で、どこから病気が始まっているのか、どこが一番ひどいのか、それを知ることが必要でした。
最初の採決は左腕からだけでしたが、今度は右腕からも、そして両脚からも血を抜きました。
それらの検体を、看護師に頼んで再び近くの病院で調べてもらったのですが、病原だと判断できる材料に結びつくものはどこにも見つけられませんでした。
続いて全身をくまなく触診しました。
触れられるたびにヒダラムは顔をしかめますが、泣き言は吐きません。
だけど結果は同じで、その衰弱ぶりが一層はっきりとしただけでした。
ムトの日誌を読み返しても、これといった良案は巡ってきません。
さらにはヒダラムが物を食べられないことも、ムイランを困らせました。
既に固形物を飲み込むことができなくなっているのです。
ですから、スープなどを少しずつヒダラムの口へ流し込んでやるしかないのです。
こうなると、万一病名が判明したとしても、体力の無い彼に治療を施すのは困難となってきます。
手術などもってのほかです。
ムトの密偵からの報告も芳しくありません。
手をこまねいているだけの日々が何日も過ぎていきました。
何もしていないのに、疲労感だけがムイランの体に蓄積されていきます。
 そんな彼に、人気の無い場所でムトは尋ねます。
「王子の病気は、治るのであろうな?」

ムイランは首を縦にも横にも振りませんでした。
頷く自信は無く、否定する勇気も無かったのです。
沈黙はムトを焦らせます。
「ムイラン殿…!」
「ムト殿、私も医者の端くれです。
当然ヒダラム王子には元気になっていただきたい。
しかし、私は神ではないのです。
尽くせるだけの手は尽くしました。
それでもどんな病気かわからなければ、薬一つ出せやしません。
王子が毎日苦しんでいるというのに、私はその傷みさえ想像に及びません。
バイバール家にとって、これ以上の不幸はありませんね。
まさに天国から地獄ですよ。
何という、気の毒な王子…」

あくまでも冷静なムイランに、ムトは苛立ちさえ覚えます。
「お主は、既に王子が死んでしまったかのような事を言いおって…!」
怒りに取り乱しそうなムトを目の当たりにしても、ムイランは顔色一つ変えません。
「残念ながら、ムト様、これは私一人の判断ではありません。
もちろん、誰かに責任を押し付けるつもりもありませんが。
私は、これまでの検査結果を全てマダフバルのヨラーテ記念病院へ送り、先輩の医師たちにも見解を求めました。
ですが、私の結論を覆すような答えなど、一つも返ってきやしなかったのです。」

ヨラーテの医師たちが締め括りとして記したのは、王子に残された時間があとどれくらいかという事だけでした。
「ううむ…」
それきり、ムトは絶句してしまいました。
ムイランの前を行ったり来たり、諦めきれない様子で歩き回っています。
ムトにはムイランに尋ねたい事がありました。
でも、それを口にするのは、厳しい現実を受け入れてしまうという事です。
さんざん迷って歩き回った挙句、ついにムトはその問いを絞り出したのです。
「王子に残された時間というのは、いかほどのものなのか?」
当然来るべき疑問である事は、ムイランも予想していました。
「酷なようですが、長くて二十日。
早ければその半分でしょう、ムト様。」

思っていた以上の短さに、ムトの顔からは血の気が引いてしまいました。
体から力が抜け、彼は膝から崩れ落ちました。
ムイランの手助けも間に合わないほどでした。
「我が息子より若いというのに、どうしてそのお命が奪われなければならぬのだ…」

床に右手をつけ、左手は心臓の辺りをかきむしっています。
そしてムトは“どうして”と繰り返しました。
「これがトミア医学の限界…いや、トミアで駄目なら他の国でも到底無理な話です。」
壁の一点を見つめて動かなくなったムトを残して、ムイランはヒダラムの寝室へ向かって歩き出しました。
その彼とて、気持ちの張りが薄れてしまっていました。
認めたくなくとも、胸の内は敗北感で一杯になっていたのです。

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