第八章「ノドモスのカケラ」【3】
「それでも君が責められる言われは無いはずだ。」
「でもトーレン様、世の中には正しい理屈が通らない時だってあるんですよ。従いたくない事にも従わなければならない時だってあるんです。相手のことが気に入らなくても理不尽でも、そうしなければ生きていけない時もあるんです。」
トーレンは何か言いかけて口をつぐみました。彼女には全てお見通しなのだと思いました。でもそのことがトーレンの心を少し楽にしました。
「今の仕事を辞めてしまおうかと思っていたんだ。」
「まあ、どうしてですの?!」
少し白々しかったかと、サーニアは照れ臭くなりました。トーレンは今日のことを彼女に話しました。
「これは明らかに私の責任だ。私一人が悪いのだ。」
「確かにその通りです。でも雇い主の方はトーレン様をクビにはなさらなかったんですわよね?許してくださったんですわ。だったら辞める理由なんてどこにもありません。」
「ああ…だが…」
「せっかく仕事が見つかったというのに、たった一度の過ちで辞めてしまうなんて考えられません。普通は必死にしがみつこうとしますわ。」
「私は今までずっと兵士として生きてきた。こんな風に雇われて、お金をもらうなんて事をしたことが無かったんだ。ひどく疲れるよ。」
サーニアはトーレンの近くに座りました。
「それに加えて今日は取引先と雇い主の両方から責め立てられてしまった。頭の中にどす黒い塊ができてしまったようだ。それはとても重くて、私の脳を締め付けている。」
サーニアはトーレンの左手を自分の両手でそっと包みました。その温かさに、トーレンは顔を上げました。サーニアは静かに微笑んでいます。
「しっかりなさってください、トーレン様。あなたがこの家の主人なんですのよ。トーレン様がここでくじけてしまわれたら、この家はおしまいです。まだ目を覚ましていないノドモス様のためにも、とにかくじっとこらえてください。」
トーレンは彼女の手を握り返しました。
「ああ、サーニア、君の言う通りだな。私は少し自信を失くしていたようだ。そう、私はこの家を守らなければならないのだ。兵士としてではなく、一人の男としてだ。」
夕食が終わり、サーニアは家に帰っていきました。トーレンはノドモスの寝室に行きました。薄暗がりの中、ノドモスは眠ったままです。サーニアのおかげで、ベッドのシーツは清潔な状態でした。ろうそくで照らされたノドモスは、少しひげが伸びたようでした。サーニアに誓ったように、この家を守らなければなりません。それがノドモスを守ることになるのです。だからトーレンは明日も必死に働こうと思いました。
次の日の朝、トーレンはサーニアに見送られて元気に仕事に向かいました。彼の背中に力が宿っています。それを見たサーニアも一安心です。トーレンが見えなくなると、彼女はすぐに家事に取り掛かりました。まず洗濯をしました。今日は空が少し曇っていて、空気もじめじめとしているので乾きが悪いかもしれないと彼女は思いました。トーレンのシーツや衣類・下着などを干して、次は掃除を始めました。はたきでほこりを落とし、窓やテーブルを雑巾で拭きました。彼女の鼻歌が聞こえてきました。それは彼女が幼い頃に覚えたバーグ地方の童謡でした。何かに集中すると、彼女は知っている歌を片っ端から唄うのです。台所とトーレンの寝室が終わったら、次はノドモスの寝室です。寝室の扉を開けると、中は真っ暗です。厚い生地のカーテンが閉められたままでした。サーニアはカーテンを開けて外の光を取り込みました。そして窓を開けて空気を入れ換えます。空気が湿っているため、さわやかというわけにもいきませんが、それでも入れ換えないよりはましでした。
「ノドモス様、おはようございます!」
返事はもちろんありませんが、ノドモスの呼吸を感じられたらそれで満足なのでした。掛け布団のシーツを取り替えました。ノドモスが乗っかっているマットのシーツも、サーニアは器用に取り替えました。ところが、寝室の掃除に夢中になり、ふと気がつくと空が真っ黒になっていました。
「大変、雨が降りそうだわ。」
彼女は慌てて洗濯物のところへ飛び出していきました。だから彼女は知りませんでした。ノドモスの指がぴくっと動いたことを。
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