第八章「ノドモスのカケラ」【3】

「それでも君が責められる言われは無いはずだ。」
「でもトーレン様、世の中には正しい理屈が通らない時だってあるんですよ。従いたくない事にも従わなければならない時だってあるんです。相手のことが気に入らなくても理不尽でも、そうしなければ生きていけない時もあるんです。」

トーレンは何か言いかけて口をつぐみました。彼女には全てお見通しなのだと思いました。でもそのことがトーレンの心を少し楽にしました。
「今の仕事を辞めてしまおうかと思っていたんだ。」
「まあ、どうしてですの?!」

少し白々しかったかと、サーニアは照れ臭くなりました。トーレンは今日のことを彼女に話しました。
「これは明らかに私の責任だ。私一人が悪いのだ。」
「確かにその通りです。でも雇い主の方はトーレン様をクビにはなさらなかったんですわよね?許してくださったんですわ。だったら辞める理由なんてどこにもありません。」
「ああ…だが…」
「せっかく仕事が見つかったというのに、たった一度の過ちで辞めてしまうなんて考えられません。普通は必死にしがみつこうとしますわ。」
「私は今までずっと兵士として生きてきた。こんな風に雇われて、お金をもらうなんて事をしたことが無かったんだ。ひどく疲れるよ。」
サーニアはトーレンの近くに座りました。
「それに加えて今日は取引先と雇い主の両方から責め立てられてしまった。頭の中にどす黒い塊ができてしまったようだ。それはとても重くて、私の脳を締め付けている。」
サーニアはトーレンの左手を自分の両手でそっと包みました。その温かさに、トーレンは顔を上げました。サーニアは静かに微笑んでいます。
「しっかりなさってください、トーレン様。あなたがこの家の主人なんですのよ。トーレン様がここでくじけてしまわれたら、この家はおしまいです。まだ目を覚ましていないノドモス様のためにも、とにかくじっとこらえてください。」

トーレンは彼女の手を握り返しました。
「ああ、サーニア、君の言う通りだな。私は少し自信を失くしていたようだ。そう、私はこの家を守らなければならないのだ。兵士としてではなく、一人の男としてだ。」
夕食が終わり、サーニアは家に帰っていきました。トーレンはノドモスの寝室に行きました。薄暗がりの中、ノドモスは眠ったままです。サーニアのおかげで、ベッドのシーツは清潔な状態でした。ろうそくで照らされたノドモスは、少しひげが伸びたようでした。サーニアに誓ったように、この家を守らなければなりません。それがノドモスを守ることになるのです。だからトーレンは明日も必死に働こうと思いました。

    

次の日の朝、トーレンはサーニアに見送られて元気に仕事に向かいました。彼の背中に力が宿っています。それを見たサーニアも一安心です。トーレンが見えなくなると、彼女はすぐに家事に取り掛かりました。まず洗濯をしました。今日は空が少し曇っていて、空気もじめじめとしているので乾きが悪いかもしれないと彼女は思いました。トーレンのシーツや衣類・下着などを干して、次は掃除を始めました。はたきでほこりを落とし、窓やテーブルを雑巾で拭きました。彼女の鼻歌が聞こえてきました。それは彼女が幼い頃に覚えたバーグ地方の童謡でした。何かに集中すると、彼女は知っている歌を片っ端から唄うのです。台所とトーレンの寝室が終わったら、次はノドモスの寝室です。寝室の扉を開けると、中は真っ暗です。厚い生地のカーテンが閉められたままでした。サーニアはカーテンを開けて外の光を取り込みました。そして窓を開けて空気を入れ換えます。空気が湿っているため、さわやかというわけにもいきませんが、それでも入れ換えないよりはましでした。
「ノドモス様、おはようございます!」
返事はもちろんありませんが、ノドモスの呼吸を感じられたらそれで満足なのでした。掛け布団のシーツを取り替えました。ノドモスが乗っかっているマットのシーツも、サーニアは器用に取り替えました。ところが、寝室の掃除に夢中になり、ふと気がつくと空が真っ黒になっていました。
「大変、雨が降りそうだわ。」
彼女は慌てて洗濯物のところへ飛び出していきました。だから彼女は知りませんでした。ノドモスの指がぴくっと動いたことを。

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第八章「ノドモスのカケラ」【2】

でもトーレンはトーレンで、もうノドモスの意識は戻らないかもしれないと思っていました。ただ、できたら少しだけでもいいから目を覚まして欲しいと思っていました。彼は遊牧民と戦った日の事をトーレンに謝りたいと思っています。ノドモスがワシュウに敗れて台地に倒れた時も、彼は動かずに遠くから見ているだけでした。トーレンはそのことを悔いていました。願わくば、そのことを謝らせて欲しいと心の底から思っていました。

    

慢心があったとは思いたくありませんでした。ですがそれは確かに彼の不注意から起きたことでした。いつものように彼は積荷を近くの町へ運んでいました。日の入りが近いこともあって、彼はいつもよりも馬車を速く走らせていたのです。だから道の異変に気づくことができなかったのです。あっと思った瞬間、馬車の右の後輪がくぼみに取られ、馬車は大きく上下に跳ねました。その拍子に積荷の箱が一つ、地面に投げ出されました。彼は身の毛もよだつ音を聞きました。今の彼にとってあってはならない、商品が壊れる音でした。箱の中には二十枚の皿が入っていましたが、無事だったのは三枚だけで、後は全て割れてしまいました。粉々になった皿を見つめてぼう然としているのはトーレンです。いつもの素早い判断力は失われていました。行くか、戻るか。時間だけが過ぎていきました。彼はいっそ仕事を投げ出してしまいたいと思いましたが、踏みとどまりました。彼はとにかく残りの積荷を取引先へ届けることにしました。彼が町へついた時は辺りはもう真っ暗になっていました。彼は客に遅くなったことと商品を割ってしまったことを素直に謝りました。客は時間に遅れたことですでに怒っていました。そこへ割れた皿を見せられ、客の怒りはさらに増しました。トーレンは罵倒とも取れる説教を長々と受けました。そして最後に割れた皿の欠片を投げつけられました。トーレンはそれを黙って拾い集め、同じく地面に投げつけられた箱に入れました。客から解放されたトーレンは暗い夜道を戻っていきました。松明に照らされた彼の顔はまるで死んだように無表情でした。村に戻り、商品を壊してしまったことを雇い主のツガに報告し、そこでもまたこっぴどく叱られました。散々怒鳴られ、やじられました。トーレンはひたすら頭を下げました。何とかクビになることだけは免れましたが、弁償のため、賃金を削られることになりました。とぼとぼと家に帰りました。

    

家ではいつものようにサーニアが笑顔で彼を出迎えてくれました。トーレンはうつむいたまま家の中に入りました。トーレンの様子がいつもと違うことに気がついたサーニアでしたが、そのことには触れませんでした。彼女はいつものように明るく振舞い、トーレンの夕食の用意をしました。トーレンは料理を黙々と口へ運びました。
「私、この村に帰ってくる前の最後の職場で大きな失敗をしたんです。」
サーニアが突然話し始めました。トーレンは聞いているような聞いていないような素振りです。サーニアはかまわず話し続けました。
「私はとある町の旅館に勤めていました。“茜色の街並み”っていう名前なんですよ、とっても素敵ですわよね?私一目でその名前が気に入って、そこで働く気になったんです。そこで四年近く働いて、ようやく私は窓口でお客様に部屋を用意する係を任されるようになったんです。ほら、お客様の予算に合わせて部屋を選んで案内したりするんですけど、ご存知ですよね?そこはその町で一番大きな旅館でした。五階建てで、広いお部屋がたくさんあったんです。五階には部屋が一つあるだけで、そこには特別なお客様だけが利用できるようになっていたんです。その日も五階の部屋には旅館にとってすごく大事なお客様が泊まりにいらっしゃいました。私、お部屋に上がったお客様から部屋に来るように呼ばれました。部屋の係は別にいるのに変だなって思いましたけど、とにかく私五階まで上がったんです。…そのお客様は私にこう言いました。“今夜泊まりに来なさい”って。どういうことかお分かりでしょ?でも私、その場でお断りしたんです。そしたらそのお客様、怒って帰ってしまわれたんです。私、今度は旅館の主人に呼ばれました。“なんて事をしてくれたんだ!”って怒鳴られました…」
「それは君に非があるわけじゃないだろう。」

トーレンはちゃんと彼女の話を聞いていたようです。
「でも、私はお客様を怒らせてしまったんです。もう少し言い方を考えればよかったと反省しました。それで私はそこにいられなくなって、この村に帰ってきたんです。」

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第八章「ノドモスのカケラ」【1】

遊牧民のふりをしたフェリノア軍との戦いから三十日あまりが過ぎていました。ここはリアライ・バーグの東のはずれにある村で、ロッカ・バーグといいます。ロッカ・バーグは村としては比較的大きなところで、農業だけではなく商業にも力を入れています。他の地域から買い集めた商品を別の地域へ運んで売るのです。主に扱うのはガラスや陶の器です。今日もまたいつものように少し遠くにあるチェシ・バーグという町へ商品を届けに行く馬車が出発しました。手綱を握っているのはトーレン・シュトエラーゼスです。彼は現在雇われの労働者となって、商品を他の村や町へ運ぶ仕事をしています。彼はロッカ・バーグに来てから、まず小さな空き家を一軒借りました。そこでノドモスの看病を始めました。ノドモスはあの戦い以来眠ったままです。この村には医者がいて、コルビ先生といいます。コルビはトーレンにはっきりとこう言いました。
「この傷のせいで体が相当弱っています。もう長くは持たないでしょう。あと五十日といったところか…」

それからトーレンは家に必要な物を買い揃えました。空き家には家具と呼べるものが何一つありませんでした。ベッドにテーブル、タンスなど。食器だってお皿一枚ありませんでした。トーレンはそれらを買い集め、一通り揃えたところでようやく安心しました。この家で暮らすのはノドモスが生きている間、コルビ先生の言うとおりなら五十日ほどということになりますが、それでもノドモスが何不自由なく暮らせるようにできるだけのことをしてあげたかったのです。トーレンは家事も始めました。洗濯、掃除、炊事と全て一人でやろうと決めました。でも、これだけは無理でした。バドにいる時も身の回りのことは人を雇って任せていたのです。彼は一日であきらめました。結局ここでも人を雇うことにしたのです。さて、そこで問題になったのが金銭面です。それまでの散財がたたって、あまりお金が残っていませんでした。確かに、騎士の家庭に生まれ育った彼は思いのほか世間知らずでした。そのため彼はお金を支払う歳、相手の言うがままになっていたのです。そこでこれ以上手持ちのお金を減らさないために働くことを決めたのです。家の中のことは雇い入れた女性に任せて、自分は商品を運ぶ仕事に就きました。ただ、それすらも初体験です。お金を手に入れるために下げたことのない頭を下げました。荷物を一人で馬車に積み入れ、馬車で他の村や町に運び、取引先から料金をもらいます。トーレンは極めて丁寧に相手に接し、多少大げさに感謝の意を表します。毎日同じ事を繰り返します。休みは八日か九日に一回です。毎晩くたくたになりながら帰宅するのです。

    

でも、そんな彼を温かく迎えてくれるのは、サーニアという女性でした。彼女はトーレンに雇われて、家の中のことを全てまかなっています。彼女は三十一歳で、トーレンとは親子ほど年が離れています。俗に言う美人ではありませんが、愛敬があって働き者でした。ノドモスの世話もよくしてくれます。トーレンの帰りが遅くなっても待っていて、彼の夕食が済むまで台所で片付けをしています。トーレンにとってはまたとない女性が来てくれたとほっとしていました。サーニアは独身で、実家で両親と暮らしています。その昔、この村を出て一人暮らしをしていた頃、結婚を誓った男性がいたのです。しかし夢はかなわぬまま、その男性とは離れ離れになってしまいました。彼女が二十六になる前の話しです。それから彼女は職を転々としながらも一人で細々と暮らしてきましたが、今年の初めにひょっこりと両親の元へ戻ってきたのです。しばらくは何をするでもなくぶらぶらとしてきましたが、偶然トーレンの家の世話をしないかという話が入り、今こうして働いているのです。ノドモスは意識が戻らないままでした。ただ顔も体もはっきりと衰弱の度合いが濃くなってきました。食事はスープなどを少しずつ彼の口に流し込むくらいしかできません。ノドモスの具合を毎日見ているサーニアは、彼の微妙な変化がわかるようになりました。ですから、ノドモスの血色がいい日などはトーレンに教えたりします。トーレンは彼女の話を聞いて頷いたり微笑んだりしています。

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第七章「古森騒動」【24】

「キオ!ルイル!」
パティンは二人に抱きつきました。
「おいよせよ。べたべたするなよ。」
パティンはそれでも二人から離れず、ぴょんぴょんと飛び跳ねていました。
「お父さんがまた二人と会ってもいいって!」
「本当に?!」
「うん!昨日二人が帰ってこなかったから、家にキオとルイルのお父さんたちが来たんだ。そのときに僕のお父さんと話をずっとしてて、二人のお父さんたちが帰った後、そう言ってくれたんだ。僕のお父さんも二人のことを心配してたんだよ。いつまでも家の中をぐるぐると歩き回ってたんだ。だからこれまで通り遊べるよ!」
「やったな、キオ!」
「うん、よかった!」

三人は輪になって喜びました。ヒャトンじいさんも疲れてはいましたが他に悪いところはなく、みんなを安心させました。キオは白森の丘のホリシカばあさんにも今度のことを話してあげようと思いました。きっと彼女も喜んでくれるでしょう。村には笑顔が戻り、全てが丸く収まったようでした。

    

収まっていないのは特殊遊撃隊のユスデノとラスゼンです。
「一体俺たちは何をしに来たんだ?盗賊どころか犬一匹仕留めちゃいないぞ!」
「気にするな。無駄に戦力を消費することがなかったことを幸運に思えばいい。」
彼らはヒャトンじいさんが戻ってきた翌日、お役御免となり帰ることになりました。ヒャトンじいさんは長に助けられたことを真剣に語りました。古森で人を襲っていたのは“流浪の民”であることも合わせて、野犬は今回お咎め無しという結論に達したのです。
「ユスデノ、これまで古森で起きた殺人は全て“流浪”どもがやったと思ってるのか?」
「ありえんな。お前も役場でカロエンの所から取り寄せた事件の資料を見ただろ?ラムラス村の証言によればこれまでに古森で見つかった死体には、明らかに食われた跡が残っていた。さすがに“流浪”たちも人間を食うまで落ちぶれてはおらんだろう。」
「じゃあやっぱり野犬が犯人じゃないか!」
「いや、正確に言えば食ったのは野犬だが、殺したのは“流浪”ということだろう。」

ラスゼンは眉間にしわを寄せて考え込みました。
「“流浪”どもが殺して放置した死体に野犬が群がったって言うのか?だが待てよ、犬ってのは本当に人間を食うのか?」
「古森の野犬の歴史は意外に長いぞ。人間に飼われていたことを覚えている世代はほとんど死んでしまっているはずだ。今森にいるのは人間と暮らした記憶を持たない純朴な野生の犬たちだよ。だから今の奴らにとって人間はただの餌に過ぎんのだよ。」

ラスゼンは半分納得したような顔をしました。
「“流浪”たちは死体をわざと野犬たちに食わせた。そうすることで殺したのは野犬だと、白森やラムラスの村人は思い込んだ。犬たちは人間の味を覚えて死体が出れば群がってくる。そこには“流浪”の存在は浮かび上がってこないというわけだ。」
ラスゼンはようやく全てがわかったような顔になりました。
「奴らが今回しくじったのは野犬に裏切られたからに違いない。キオが長と呼んでた奴がヒャトンを助けたことで全ての流れが狂ってしまったというわけか!」

ユスデノはにやりとしました。
「そういうわけだ。今は推測に過ぎんが、それも取調べを行えばはっきりとするだろう。」
「あの病人か?あの野郎洗いざらい話すだろうか?」
「話すさ。秘密を守る気なら死ぬのを待ったりなどせずに自決してるはずだ。生きたいという気は残ってるんだ。目の前に餌でもちらつかせてやればすぐに口を割るよ。」
「釈放してやるのか?」
「誰がするものか。ちらつかせるだけだ。」

    

帰り支度を進めている彼らを気にとめる者はほとんどいませんでした。白森の村人たちにとって彼らはもう用のない客人だったのです。
「冷たいものだな。どうせまた俺たちの力が必要になるくせに。」
悪態をついていたラスゼンの前にルイルの姿が飛び込んできました。ラスゼンが手招きをすると、ルイルはうれしそうに走ってきました。
「どうした、見送りにでも来てくれたのか?」
「ラスゼン様、私を特殊遊撃隊にいつか加えていただけますか?」

ラスゼンは喜んで笑いました。
「今すぐにでもかまわんのだがな。もしお前が本気なら本城までやって来い。そこで俺の名前を出せばすぐに話がつくはずだ。」
「はい、ラスゼン様!」

特殊遊撃隊の面々は村長とディスマン氏、それに数名の村人とルイルに見送られて村を後にしました。パティンは二人と遊ぶ時間を作るために勉強をしています。キオは兵隊たちに会いたいと思わず、一人で古森を眺めていました。長は間違いなくヒャトンじいさんや自分を助けてくれました。それがたまらなくうれしかったのです。いつの日かもっと彼と仲良くなれるはずだと思うキオでした。

             ― 第七章 完 ―

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第七章「古森騒動」【23】

「ヒャトンさん…」
キオの後ろから覗いていたルイルが一言漏らしました。二人の目の前には仰向けに横たわるヒャトンじいさんの姿がありました。それは眠っているようでもあり、そうでないようにも見えました。
「生きてるのか?」
「わかんないけど…起こしてみようか?」
「起きなかったらどうするんだよ。どうしたらいいのかわかんないぜ?俺、なんだかこの山がお墓に見えてきたよ。」
「やめなよ。せっかくヒャトンさんが見つかったのに。」

するとその時、ヒャトンじいさんが寝返りを打ちました。二人はびくっとしましたが、ヒャトンじいさんはそのまま動きませんでした。
「動いた…」
「寝てるんだ。生きてるんだよ。」

二人はほっとしました。ルイルは松明を小山に立てかけ、自分も小山に背をもたれかけて座りました。
「生きてるってわかったんだから、起こすのは明日にしようぜ。」
キオも同じようにルイルの隣に座りました。ヒャトンじいさんの姿を見て力が抜けたのか、疲れを思い出したのか、二人は猛烈に眠くなりました。少し離れたところに長が座っています。キオが意識を失う直前に見たのは、長の頼もしげな目でした。二人は安心したように深く深く眠り込みました。

    

彼らが目を覚ましたとき、辺りはすっかり日が昇って明るくなっていました。二人は名前を呼ばれて目を開けたのです。目の前には、彼らの顔を覗き込むヒャトンじいさんが座っていました。
「ヒャトンさん!」
「やあ、おはよう。キオもルイルも私を探しに来てくれたんだね?よくもまあこんな所まで…」
「ヒャトンさん、大丈夫なんですか?」
ヒャトンじいさんは右脚をさすりました。
「この辺りを傷めてしまってね、始めは動くこともままならなかったんだよ。だけどここにいてずいぶんよくなった気がするよ。実はな、長が助けてくれたんだ。」

そういえば、長の姿が見当たりません。
キオとルイルは顔を見合わせました。
「僕たちをここへ連れてきてくれたのも長なんです。」
ヒャトンじいさんは目を丸くしました。
「そうだったのか。彼は本当に賢く、強く、誇り高い犬だ。彼のような野犬に出会えたことはこれ以上ない幸運だよ。」
ヒャトンじいさんはまだ歩きづらそうでした。そこで、ルイルが先に村に戻って彼の無事を知らせてくることにしました。ヒャトンじいさんとキオは後からゆっくりと村に向かいます。
「すぐに村から皆を連れてくるよ!」
ルイルは走っていきました。キオとヒャトンじいさんも、昨晩ルイルがつけた目印を頼りに村へと歩き始めました。その道すがら、ヒャトンじいさんはこれまで何があったのかをキオに語って聞かせました。ヒャトンじいさんがラムラス村に行った帰り、彼は野犬ではなく人間に襲われました。馬車の車輪が壊されて、彼は外に投げ出されてしまいました。足のけがはそのときに負ったのです。彼は全身を強く打って意識が朦朧とする中で、自分の死を覚悟しました。ところが、そこに現れたのが長でした。長は人間たちを追い払いました。そこから先はしばらく記憶がありません。気がついたらここにいたのです。しかし体中に打撲を負っている彼の体は思うように動かせませんでした。仕方なく彼はこの穴の中で寝たままでいました。喉が渇き、腹が減りました。これではけがが治る前に餓死してしまうだろうと思いました。そんな中、長はふっと姿を消したかと思えばどこからかまたひょっこりと現れるのです。長はヒャトンじいさんの枕元に木の実を置きました。ヒャトンじいさんはその木の実のおかげで飢えをしのぎ、水分を補給できたのです。昼間、長はそれを何度か繰り返しました。夜になると今度は穴の前に立ち、外敵からヒャトンじいさんを守るように朝までそこから動きませんでした。
「あれから何日たったのか分からんが、長が一所懸命に看病をしてくれたおかげで、私はすっかり元気になったんだよ。」
「長ってすごいね。」
「ああ、すごいな。あんなに賢い動物が人間に牙を向けることは絶対にないよ。」

キオはとても喜びました。これできっと野犬は殺されずにすむだろうし、パティンとも今までどおりに会えるようになるだろうと思いました。途中何度か休みながら歩いていると、遠くからキオとヒャトンじいさんを呼ぶ声がしました。
「おーい、こっちだよ!」
キオが元気に返事をしました。ルイルと一緒に村の男たちが数名、二人を迎えに来たのです。その中にはゴルやグレニー、そしてトッケスの姿もありました。ヒャトンじいさんは馬車に乗せられ、キオやルイルと一緒に無事、村にたどり着きました。村人みんなが彼らを出迎えました。ディスマン氏やソーヴァンの姿もありました。村人たちの脇をすり抜けてきたのはパティンです。

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第七章「古森騒動」【22】

二人の後ろにいる三匹のうちの一匹が、辛抱できなくなり、ちょっとだけ前へ出ました。鼻先がキオの足に触れんばかりまで近づいてきました。彼のよだれは地面を濡らし、彼の熱い吐息はキオのふくらはぎに当たっているはずです。でもキオには気づかれていませんでした。もういいだろうと、野犬はその口を大きく開けました。彼の鋭い牙が、今まさにキオに襲い掛からんとしていました。その時、その野犬のどてっ腹に何かが体当たりをして、野犬はまともに横に吹っ飛びました。彼が地面に叩きつけられた時に小さな悲鳴を上げたので、キオとルイルはようやくこの異変に気づくことができたのです。体当たりを食らわせたのは、長でした。キオは松明を高く振りかざしました。威嚇の唸り声があちらこちらから聞こえてきました。ルイルは声のするほうへ松明をぶんぶんと振り回しました。
「キオ、こいつらやっぱり俺達を食べる気だ…」
「しっ、静かに!」

長が二人の元へ近寄りました。
「長は僕たちの味方だよ、大丈夫。」
「ちぇ、本当かよ?」

キオとルイル、そして長を中心として野犬たちがぐるっと円を描いています。向こう岸に逃げることもできません。これはマレアを追って古森に入ったあの日と同じ光景でした。野犬たちは今にも飛びかからんとしています。でも、キオの隣には長がいます。それだけでもう怖くありませんでした。長は前足を踏ん張り、負けじと唸り始めました。徐々に彼の体毛が風を受けているように上に向かってふわっと浮き上がりました。まるで地面から風が吹いているようです。でも実際に風が吹いているわけではありませんでした。長の体が大きく見えます。彼の白い体はこの前と同じように輝いて見えました。気のせいか、長の体はどんどん大きくなっていくようでした。そして長の輝きはやがて松明の炎よりも明るくなり、青白い光がこの辺りを照らしました。唸り声を上げていた野犬たちは、この光を恐れました。一匹また一匹と静かに、おとなしくなっていきました。光は野犬たちをも包み、さらにその後方までも照らし出しました。野犬たちは後ずさりをして、ついにその一匹が踵を返して逃げ出しました。それにつられて他の犬たちも尻尾を巻いて逃げていきました。野犬たちが全ていなくなり、殺気だっていたこの場所にも平穏な空気が戻りました。

    

気がつくと長はもとの大きさに戻り、その輝きもなくなっていました。
「なんだったんだよ、今の…?」
「長だよ、長が野犬を追っ払ってくれたんだよ。」
「嘘だろ…?」

今は松明の明かりだけが二人と一匹を照らしています。長は何事も無かったように川の水を飲んでいました。その姿は普通の犬となんら変わりなく、ルイルには先ほどの光景が信じられませんでした。それから、二人の前にいる長がキオをちらっと見上げました。また長に怒られる、とキオは思いました。でも長は怒ることなく視線を外して歩き始め、ぴょんっと川の向こう岸へ飛び移りました。そして長は振り返って二人をじっと見ていました。キオの心臓がどくんと鳴りました。

また何かが聞こえました。
「きっとついて来いって言ってるんだ。」
「え、何で?!」
キオは躊躇せずに川に入り、向こう岸へ歩き始めました。川底は浅く、流れも緩やかです。ルイルは仕方なく彼についていきました。こんな時にキオを止めても無駄だとわかっているからです。二人は長の後ろから歩いてきました。ルイルは赤い糸を枝に結びながらです。時々長は振り返って二人の様子をうかがいながら、森の中を進んでいきました。森の木々は明るい樹皮から黒い樹皮のものが多くなり、森の中はさらに濃い闇に包まれたようでした。
「おいキオ、あいつどこまで行くんだよ?!もう糸が無くなっちゃうよ!」

小川からはずいぶんと離れたようでした。やがて二人と一匹はぽっかりと開いた広場に出ました。長は広場の中に入っていきました。二人が続いてはいると、広場の真ん中には土がこんもりと盛られていて、近づいてみるとそれは人の背丈ほどの高さがありました。長がその小山を回りこんだので、二人もその後に従いました。長がそこに立ち止まりました。キオが見てみると、その部分だけ丸くくぼんでいました。彼はくぼみの中を松明で照らしてみました。中を見て驚いた彼は大声を上げそうになり、松明を落としてしまいました。人の脚があったのです。その脚は左だけ靴を履いていて、右は裸足です。キオはその靴を見たことがありました。彼は松明を拾い上げてさらに奥を照らしてみました。その人の顔をはっきりと見ることができました。

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第七章「古森騒動」【21】

「え?」
「すごく小さいけど、きれいな水が流れている川があるんだ。ちょっと離れてるから時間がかかるかもしれないけど、行ってみないか?」
「うん、行こう!」

二人は道を外れて北東の方向へ歩き出しました。彼らは背中に一本ずつ松明を背負っていました。今日だけは夜になっても帰らずにヒャトンじいさんを探すつもりでした。時折ルイルは赤い糸を木の枝に結びました。パティンがやっていたことです。二人は休む間もなく歩き通しました。耳を澄ますと、鳥の鳴き声がかすかに聞こえてきました。古森で鳥の声を聞いたのはキオにとって今日が初めてかもしれません。
「古森の鳥は川の近くにだけいるんだ。」

ルイルが教えてくれました。それは川が近いということを示していました。辺りの景色も目に見えて変わってきました。生えている木の種類が違っています。村からの道の辺りに生えている木の樹皮は黒っぽいものばかりでしたが、この辺はそれが明るい色になっていました。カリスの実が成る木ほど白くはありませんが、濃い茶色で、肌はごつごつしておらず滑らかです。空気も心地よく流れています。どんよりとした感じはどこにもなく、少し水の匂いがするようでした。
「キオ、あそこだ!」

ルイルが指差しました。彼の言うとおり木と木の間に、確かに小川がありました。大人が手を広げたぐらいの小さな川です。でも、キオは古森にこんな川があるなんて知りませんでした。上を向くと、川の流れに沿って空が見えていました。とても気持ちの良い場所です。ここにいると、案外早くヒャトンじいさんが見つかりそうな気になってきました。
「ひょっとしたらヒャトンさん、森の中で迷ってるかもしれないだろ?もしこの小川のことを知ってたら、ここを目指してくるかもしれないぜ。」
ルイルの推測にキオは大きく頷きました。二人は川の上流に向かって歩き始めました。さらさらと流れる水に、二人の心は安らぎました。川べりの起伏は緩やかでしたが、それでも少しずつ上がっていきました。やがて行き当たった先は人二人分の高さの崖でした。小川の水はこの上から落ちてきています。キオは上がれそうなところを探しましたが、ルイルはすぐさま崖に飛びつきました。キオがはらはらしながら見守る中、ルイルは崖から出っ張った部分を探して掴み、またそれを足場にして止まることなく頂上にたどり着きました。
「ちょっと待ってろ、すぐ戻るから。」

崖の上から顔だけを出してそう言うと、ルイルはすぐに顔を引っ込めて見えなくなりました。キオは近くに腰を下ろして待ちました。ほどなく彼を呼ぶ声がして、上から長い蔦が降ってきました。再びルイルが顔を見せました。
「それを使って上がって来いよ!」

キオは蔦を体に巻きつけ、崖に足をかけてゆっくりと上っていきました。ルイルがいいぞ、とかもう少しとか言うのを信じて彼も止まることなく登り切りました。それから二人は再び川を上流へ向かいました。

    

川幅は少し狭まったようでした。そしてその頃から、少しずつ空が暗くなっていくのを感じました。鳥のさえずりも聞こえなくなったようです。森はすぐに闇に包まれました。二人は松明に火を灯しました。その火を見つめていると、キオはふと、ひょっとしたらヒャトンじいさんはもう村の誰かが見つけているんじゃないかと考えました。
「行こうぜ、キオ。」
ほんの少しだけ弱気をのぞかせたキオを奮い立たせるように、ルイルが歩き出しました。キオもすぐに後を追いました。足元では水の流れる音がしています。風も吹いていないこの森で、それ以外の音がしているなんて思っても見ませんでした。いくつもの足音が二人を目指して近づいてきました。キオもルイルもまったく気がついていません。足音の主たちは四本足で歩き、暗闇に目だけを光らせています。口からは長い舌をぶらつかせ、舌からはよだれが垂れていました。時折鋭い牙も口から見えています。野犬です。その数は八匹。野犬たちはキオとルイルを今夜のご馳走に決めました。松明の明かりと、二人の匂いを追って、絶好の機会をうかがっていました。彼らが逃げられないように、八匹のうちの三匹が河の向こう岸へ渡りました。その時、野犬の足が水につかり、ぽちゃんと小さな音がしました。でも、キオがその音に少し振り向いただけで、二人はすぐまた歩いていきました。木の間をぬって二匹が二人を追い越しました。これで後ろにも前にも横にも逃げ道がなくなりました。

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第七章「古森騒動」【20】

パティンの反論にトッケスは目を白黒させました。パティンの願いをばっさりと切り捨てることをためらったのです。三人の真剣な目が彼を射抜きました。
「…ヒャトンじいさんを見つけてこい。」
トッケスはキオとルイルにそう言いました。
「え?!」
「二人でヒャトンじいさんを見つけてくるんだ。明日一日猶予をやる。他の奴に先を越されてもだめだぞ。お前たちで一番はじめに見つけるんだ。そうすればお前たちの願いを聞いてやろう。」
「お父さん!今までだってこれだけ探して見つかってないんだよ。それを明日一日でなんて無理に決まってるよ!」
「どうする、お二人さん?」
ルイルとキオは目を合わせ、頷きました。
「わかりました。僕たちでヒャトンさんを見つけてきます。」
パティンの家を後にして、夜道を二人は歩いていました。二人とも決意に満ちた表情をしています。
「どうやって探す?」
「わからない。でもとにかく探す。」

翌朝、彼らは古森へ向けて走りました。ヒャトンじいさんを見つけるまで帰らない、そんな思いを胸に秘めて彼らは走りました。

    

ユスデノ率いる特殊遊撃隊の面々は“流浪の民”の足取りを追っていました。彼らが脱出に使ったとされる三本の通路を念入りに調べました。足跡や遺留品が無いかと丹念に通路を調べたのです。その通路は三本とも一本道でした。そのうちの二本の出口はマセノア内部へ向かっていました。この二本には比較的新しいと思われる足跡が残っていました。残りの一本はリグ・バーグとの国境へ向かっていました。足跡はほとんど残っていません。もし流浪の民たちが越境していたら、捜索は困難を極めます。特殊遊撃隊に他国での活動は認められていないのです。
「どうする?この足跡どおりにマセノアを出ていないと信じて探すか?それとも足跡は見せ掛けで
実はリグ・バーグに向かったとして追うか?」
「リグ・バーグに行くのは現実的ではないな。許可を取っている間に奴らがどこに行ってしまうかわからんよ。」

ラスゼンはちっと舌打ちをしました。

「一番の問題は、奴らがあのアジトを脱出してからもう数日経っていることだ。国内かリグ・バーグか、どっちに行ったとしても見つけ出すのはたやすいことじゃない。」
「じゃあ流浪の民の探索はここまでとするか?」
「ああ、一旦打ち切ろう。もし国内にいるなら出逢うことが必ずあるはずだ。」

彼らは白森の村まで戻ることにしました。ユスデノの元へ続々と少年兵たちが集まってきています。
「俺たちが着くまでにヒャトンってじいさんが見つかってればいいけどな。」
「そんなに簡単にはいかんさ。生きているかどうかもはっきりしていないしな。」
「それなら、生きてるかどうか賭けるか?」

ユスデノは答えませんでした。ラスゼンの悪ふざけが過ぎたのです。

    

もはや古森へ行く彼らを止める者は誰もいませんでした。事情を聞いた二人の家族も成り行きを見守るだけでした。失いかけている友情を取り戻すため、キオとルイルは森の中を進みました。ただ、相変わらず探す手立てはありません。古森は広く、深く大地に横たわっています。ヒャトンじいさんの居場所が白森の村からかけ離れたところだったとしたら、今日中に見つけ出すことはかなわなかもしれません。時間だけが無常に過ぎていきます。彼らは昼食をとる暇も無く、パンをかじりながら歩きました。白森の村人も捜索を続けています。同じところを探していても埒が明きません。そんな時、ルイルがぽつりともらしました。
「もし見つからなかったらどうする?」
「そんなこと考えてる場合じゃないよ!ルイル。」
「わかってるけどさぁ…何も怒ることないだろ。」
キオは苦笑いをしました。
「今の、パティンみたいだったね?」
「俺?そうだっけ。そういえばしばらくあいつの“そんなに怒らないでよ”って聞いてないな。」

キオはルイルの背中をぽんっと押しました。
「もしヒャトンさんが見つからなかったら、しばらくどころか永久に聞けなくなっちゃうよ。」
ルイルはよろっと前につんのめり、そして思い出しました。
「この先に川がある…」

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第七章「古森騒動」【19】

三人が村まで戻ると、パティンの両親が待ち構えていました。ルイルはパティンから少し離れました。トッケスはパティンを軽々と持ち上げ、愉快そうに笑いました。
「おお、間違いない。わが息子だ!どこもけがは無いか?」
「お父さん、下ろしてよ。恥ずかしいよ。」
「何が恥ずかしいんだ?それ、もっと高く上げてやろう。」

ルイルはあの時のトッケスのことが今でも忘れられず、とても怖いと思っていました。それは今、笑顔のトッケスを見ても換わりません。ルイルのそんな気持ちは、キオにも十分伝わりました。二人はそっとこの場を後にしようとしました。
「キオ、ルイル、待って!」

トッケスに持ち上げられたままでパティンは二人を呼び止めました。
「お父さん、下ろして。僕、二人に話があるんだ。」
「その必要は無い。」
「どうして?!友達なのに!」
「あの二人はお前を危険な目に遭わせた。そんな奴を友達だなんて思うな。これからはあの二人と遊ぶのは禁止だ。もっと勉強に集中するんだ。お前は勉強さえすれば、大人になってもっといい暮らしができるんだぞ。お前に見合った友達を作ればいいんだ。」
「い、いやだよ。僕、キオやルイルといっしょに遊びたいんだ。勉強もこれからはもっとするから…」

トッケスは息子を地面に下ろしました。
「だめだ。」
「お父さん!」
「だめだと言ったらだめだ。もしかしたらお前は殺されてたかもしれないんだぞ。あいつらと森に入ったりしたからこんな事になったんだ。とにかくあいつらと付き合うのは許さん。」
キオとルイルは何も言わずにパティンに背を向け、その場を立ち去りました。村の中はいつもの賑わいも無く静かです。パティンはこうして戻ってきましたが、ヒャトンじいさんの安否がつかめていません。村人たちは引き続き森の中を探しているのです。キオとルイルは歩きながらふと寂しさを覚えました。
「もうパティンと遊べないな。」
「うん…」

二人の心にぽっかりと穴が開いたようです。同じ村にいるのに、パティンがすごく遠くに行ってしまったような気がしていました。
「でもパティンが無事でよかったね。」
「そうだな…」

二人の会話が弾むわけもなく、彼らはいつの間にか道を別れて家に帰っていきました。

    

夜になり、ルイルは自分の部屋で教科書を取り出し、開いてみました。そんなことは今までした事がありませんでしたが、もし自分も勉強をするようになれば、またパティンといっしょにいられるようになるかもしれないとルイルは思いました。でも、教科書の内容が頭に入るわけもなく、ルイルはすぐに教科書を放り投げてしまいました。彼はベッドに仰向けになり、天井を見つめました。本当にこのままでいいのか、彼は自問自答を繰り返しました。その答えは全て同じ、“いいわけがない”なのでした。きっとキオも同じ思いのはず、彼は家を飛び出してキオの家に向かいました。そして自分の部屋でしおれていたキオを呼び出して、二人でパティンの家へ行きました。ゴルとシアはその様子を黙って見ていました。ルイルはパティンの部屋の窓へこっそり行こうとしました。でも、キオがそれを止めました。
「隠れてパティンと会っててもだめだよ。パティンのお父さんにわかってもらわなきゃ。」

だから二人は正々堂々と玄関の扉を叩きました。玄関の扉を開けて出てきたのはトッケスでした。いきなりのことでルイルは腰が引けました。キオは彼の腕を掴んで後ろに行かせまいとしています。ここで踏みとどまることはキオのため、ルイルのため、そしてパティンのためなのです。
「なんだ、またお前たちか。」
トッケスが二人を見下ろしています。
「お願いです。僕たち、これからもパティンと一緒にいたいんです。」
「うちの子と一緒にいて何をする気だ?また勉強もせずに遊びほうけるつもりだろう?そんなんじゃまたどんな危ない目に遭わされるかわかったもんじゃない!」
「俺たち、勉強もします。パティンが勉強できるようにするから、これからも友達でいさせてください、お願いします。」
玄関の騒ぎを聞きつけて、パティンが部屋から出てきました。
「キオ、ルイル…」
「お前は部屋に戻ってろ、パティン!」

パティンは首を振りました。
「いやだ、絶対にいやだ!僕はキオとルイルと一生友達でいるんだ!二人は僕がさらわれてから、ずっと古森を探してくれてたんだ。キオは目の前のことに集中すると周りが見えなくなっちゃうけど、それでも僕のことを気にかけてくれる。ルイルはちょっと乱暴だけど、それでもいつも僕を仲間に入れてくれるんだ。お父さん、お願いだから僕たちをばらばらにしないで!」

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第七章「古森騒動」【18】

穴の数は全部で八つ、通路になって上に向かっているものが四つと、部屋になっているもの四つとがそれぞれ交互に並んでいました。ユスデノたちが入ってきた通路とは別の三つのどれかから、ここにいた彼らは脱出したようです。
「それはいつの話だ?」
「一昨日だと思います。広場の天井から伸びている筒から昼間は光が差し込むのですが、あの人たちがいなくなったときは光がありませんでした。それから光が差して、また消えて、二度目に光が差したとき、あなたたちがやって来たのです。」

ユスデノはパティンの頭にやさしく手を置きました。
「怖かったろうに。よく落ち着いて見ていたな。」
パティンはようやくほっとしました。
「ご老人、あんたは一体何者なんだ?」
老人はかすかに声を震わせながらこう言いました。
「我々は流浪の民だ。古代ワレイドゥア王国の末裔だ。王国の滅亡後、我々は諸国を転々と移り住みながら生きてきた。ここに来たのは二十年近く前だ。」

それから老人はうわ言のように語り始めました。彼ら流浪の民は大戦の終わりが近づいた頃に古森にやってきました。そして自分たちでこの地下の住処を作ったのでした。ユスデノは彼らの高い技術力に感心しました。しかし彼らにとって計算外だったのは、この森ではあまり食料となるべきものが採れなかったことです。流浪の旅を続けてきた彼らには食料を買うお金もありませんでした。
「なぜ働かん?あんたたちの腕を持ってすればすぐに大金を手にすることができただろうに。」
「我々のような高貴な民族は人に仕えて賃金をもらうなど、到底できんことなのだ。」
「ふん、それでその高貴な民族様たちは食うに困ってこの森を通る者を襲って金を奪っていたということか。」

パティンははっと息を呑みました。
「彼らは不用心だった。夜の森を一人や二人で、大した武器も持たずに通り抜けようとした。」
「そして殺した。」
「我々の存在がばれないようにするには他に方法が無かった。」
「犯人は野犬たちじゃなかったんですね!」

キオが聞いたらきっと喜ぶとパティンは思いました。
「…奴らは裏切った。」
とても小さな声で老人は言いました。パティンは気づかずに聞き流しました。
「あんた病気なのか?」
「長い患いだ。いよいよ体が動かなくなってしまった。」
「気の毒な話だ。あんたは他の奴らに置き去りにされてしまったというわけだな?」
「いいや、違う!私は自分で残ることを決めたのだ。この有様では他の者たちに迷惑をかけるからな。私は誇りある死を選んだのだ。」

ユスデノは突然笑い出しました。パティンはきょとんとした顔で笑っている彼を見ています。
「何がおかしい?」
「誇りある死だと?ばかばかしい。あんたたちがどこの末裔だろうと知ったことか。…お前たちのやっていることは盗賊と同じだ。盗賊などには誇りある死どころか、慈悲も温情も与えられんよ。あんたに与えられるのは、斬首か縛り首か火あぶりの刑だけだ!」

    

「僕も行かせてください!」
「だめだ。」
「でも、こんなに待ってるのに誰も戻ってこないし。何かあったのかも。」
「それならなおさらだめだ。素人を行かせる訳にはいかん。大体お前に何ができるっていうんだ?」

ラスゼンはキオの肩に手を置きました。そのかすかな震えはラスゼンにも感じ取れました。
「まあ落ち着け。お前が思うほど大して時間は経っていない。こういったときは得てして長く感じるものだ。」
落ち着け、とはラスゼンが自分自身にも言い聞かせた言葉でした。この穴の中で何が起きているのか、考えれば考えるほど焦れてくるのです。その時、穴の中から少年兵の一人がひょっこり顔を出しました。ユスデノからの伝令を持ってきたのです。
「穴の奥に残っていたのは二人。一人は行方不明になっていた白森のパティン・タラサ、彼にけがは無く元気である。もう一人は今回の事件の犯人の一人である。なお残りの犯人たちは二日前にこのアジトを脱出したものと思われる。以上です!」

ルイルがキオの体を揺すりました。
「今、パティンって言ったのか?」
「そうだよ、パティンって言ったんだよ、元気だって!」

キオとルイルは抱き合って喜びました。ラスゼンは人差し指で自分の頬をぽりぽりと掻いています。
「なんだ、終わっちまったのか。」
彼はパティンを無事保護した件を伝えるため、兵を一人村まで走らせました。キオとルイルは穴の中に顔を突っ込みそうなほどに覗き込んで待っていました。ほどなくユスデノが現れ、その後からパティンが出てきました。
「パティンだ!!」
「やった!」

パティンはなぜか照れ臭そうでした。

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